久しぶりに、おそらく7、8年ぶりに法事があり、午前中より川崎の実家へ向かう。我が家の仏事はすべて小田原の本誓寺さんというお寺にお願いしている。以前にも書いた気がするが、ウチは親父が役者の仕事をするために家族4人で上京したので、親戚は全員関西にいる。ただ、祖父が亡くなる直前になって何故か川崎の春秋苑という公園墓地に「お墓を買う」と言い出したので、東良家の墓はそこにある。おそらく祖父としたら息子夫婦はこれから先ずっと東京で暮らし続けるのだろうから、こちらに墓を建てた方が長年守って貰えると考えたのではないだろうか。
その祖父が亡くなり祖母も数年後に逝き、納骨や一周忌などはわざわざ大阪からご住職に来て頂いていたように思う。そしてあれは祖母の七回忌とかその頃ではなかったか? そろそろこちらでお寺を探さなければと父母が言い始めた時、ふと思いついたのが僕の友人、成田弥宇だった。僕らは代々木にあった小さな編集プロダクションで知り合った。僕が23才、成田は21才だったと思う。大正大学で仏教を学びながらリビドーという実にアンダーグラウンドな匂いのするバンドをやっていた。裸のラリーズとピンクフロイドを合わせたような音楽性と、難解だが非常に人の心を打つ歌詞があった。
卒業してすぐ、住職であったお父さんが若くして亡くなったので、成田は本格的に仏門に入り実家の寺を継ぎながら音楽活動をしていた。なので、我が家の法事を彼と本誓寺さんにお願いしたのだ。僕ら仲間は「成田が坊主になったので、アイツがお経をあげてくれるからいつでも安心して死ねる」などと軽口を叩いていた。しかし成田弥宇はリビドー三枚目のアルバムをリリースした後、病に倒れ急逝してしまう。1990年、29才の時だ。その後本誓寺さんは、後期リビドーでキーボードを弾いていた弟さんが継いでいる。93年、ウチの親父が死んだ時もこの弟さんがお経をあげてくれて、戒名も付けて頂いた。彼に会うのも本当に久しぶりである。若々しい人ではあるが、熟練した寺の住職という雰囲気がすっかり板についている。成田弥宇も生きていれば、彼のようになっていたのだろう。しかし思い出すのは痩身をいつも漆黒の衣装に包み、TUNEのフレットレス・ベースを弾きながら人間の深い存在の不条理を唄う姿だけだ。
帰りは雪が降りしきる中、わざわざ大阪から日帰りで上京してくれた叔父と共に小田急線で新宿まで帰った。叔父、つまり父の弟である。今朝、数年振りに再会した時、叔父が晩年の祖父そっくりになっているのに驚いた。すると叔父の眼には、僕は父そっくりに見えただろうか? 「本、読ませてもうたよ」と言ってくれる。「あの場面が良かったねえ」と具体的なシーンを挙げて。とても恐縮した。そしてふと、親父が生きていたら僕の本を読んで何と言っただろうかと考えた。