久しぶりに走る。117分。まるまる一週間jogを休んだ。これでは『毎日jogjob日誌』というのはタイトルに偽りアリだな、と思う。少し前に「花粉症は風邪と違ってジョギングやジムには行けるからマアいいか」みたいなノー天気なコトを書いたけど今回はもう少し深刻だった。鼻と喉が苦しくてとても走ろうなんて気にならなかったし、同居ネコの病気もあった。それらによってかどうかはわからないが気分の暗さもあった。
僕の場合、走ることと書くことはとても似てる。両方とも自分にとってこのうえなく楽しいことだから、出来ないと暗くなる。日常的に文章を書いていたいからそのために走っている。それは身体を鍛えるとかいう意味ではなく──「鍛える」というほどシビアには走っていない──常に身体の中を循環させていたいからだ。河が淀みなく流れるように、ちびちびとたくさんの水を飲んで、流れ続ける意識でいたい。
今日は午後からずっと
『LIVE/DEAD』を聴いていた。ジェリー・ガルシアのギターは本当に水みたいだ。流れて流れて変幻自在にカタチを変えて、どこまでも透き通って美しい。こんなコト書くのは身の程知らずだし笑わせんなよかもしれないけど、ジェリーが弾くギターのように文章が書けたらとずっと思っている。
ジェリー・ガルシアは言っている。「なんにもしないで生きてきたよ」(
『自分の生き方をさがしている人のために』ジェリー・ガルシア+チャールズ・ライク著、片岡義男訳。草思社刊より)と。チャールズ・ライクはそれに対し「なんにもしない──、つまり友人達と何となくたむろしたり、ギターが弾けるように練習したり、ロックンロールを聴いたり、マリワナでハイになったりということだ」と書いている。
ライクは「グレイトフル・デッドはただ人生を楽しむだけのためにグループを組んだ」とも書いている。たぶんジェリーは好きなものだけを、好きなぶんだけ吸収して生きた。だから放出される音楽はまるで澄み切った水のように美しい。僕は『LIVE/DEAD』を初めて聴いた17才の頃からずっとデッドを愛してきた。だけどジェリーが死んで10年になろうとしてる今、やっとその素晴らしさのほんの入口に触れられたような気がしてる。