昨夜書き残した原稿を仕上げるために5時半起床。内容のチェックをして頂くインタビューイの方が、出勤されるのは早くても8時過ぎだろうと勝手に踏んでいた。それなら書き上げてからメールで送り、その後、朝いちばんでジムに入れるという作戦である。お風呂に30分ほど入って眼を覚まし、珈琲を入れ朝刊を読みながらストレッチをしようと玄関に取りに行き、一面を見てその事件を初めて知った。「長崎市長、撃たれ重体」(朝日新聞)の大見出し。中見出しには「選挙事務所前、二発」とある。思わず出た言葉は「むちゃくちゃや」だった。人間、我を忘れると知らず知らずのうちに育ちが出る。
言論というものが此処までヘタって来ているのだ、と思う。例えば六〇年代アメリカのケネディ兄弟やキング牧師の場合、言論というものの盛り上がりに畏怖を感じた既得権者達が、彼らを撃ったという考え方がある。ボブ・ディラン言うところの「戦争の親玉」達の仕業である。だから、オリバー。ストーンは「JFKが殺されてから、アメリカはすべて狂った方向へ向いた」と言ったのだ。それに比べ、この国の脆弱さはいったい何だろう? 容疑者の男は暴力団だか何だか知らないか、59才だという。還暦を前にした大の大人が、こういうことをする。レベルが低過ぎるとしか言い様がない。
社会というのは言論の積み重ねでしか決して変わらない。それも常にとても小さくて、一歩進んで二歩下がるようなスピードでしかないのだけれど、決してそれ以外の何かの力では変わりようがないのだ。そんな単純なことすら判らない世の中なのだ。そもそも「大の大人」と書いたけれど、この国で「大人」と呼ばれるのは、常に何かをあきらめた男達を言う。だから美しいことを求めたり何かに感動したり、小さくても良いからこの世の中を変えようとか、より良い社会を作ろうと心懸けることはすべて、「青臭い」というひと言で片付けられる。
しかしそういう「大人」達に出来ることって何だ? 貧乏臭い飲み屋で安い日本酒を飲み不味い焼き鳥を喰い、上司の悪口と女房への愚痴を言うだけじゃないのか。だからそういうヤツが切れると無抵抗の人間を背後から撃つというような、卑怯なことしか出来ない。言葉で、言論で、今まで一度として何かを求め闘い、勝ち取って来た経験が無いからだ。あきれて物も言えないとはこのことだ。今日も一日雨が降っていた。夕方から人に会うために新宿に行った。駅構内の山手線ホームに上がる階段には、「撃たれた長崎市長死亡」と書かれた夕刊が落ちていて、サラリーマン達の雨に濡れた汚れた靴で踏みつけられていた。