高層ビルの中にある冷たいプールで泳いでいて、ぶるぶると震えている夢を見て眼が覚める。時計を見るとまだ4時。台所へ行って水を飲んでからフトンに戻り、もう一度起きると汗をかいていた。7時半。夜中と陽が出てからの寒暖の差が激しいようだ。今期初めてウインドブレーカーはやめて、下はナイキのジャージ、上はリーボックの半袖Tシャツで走る。
洋泉社から7月発行予定の単行本『女優・林由美香(仮題)』のコラム用に、2本の古いAV、『ジーザス栗と栗鼠スーパースター』90年作品・監督=安達かおる、『硬式ペナス』89年作品・監督=カンパニー松尾(共にV&Rプランニング)を観直す。両作品共、今観ると異様なほどに暗い。いや別に、内容的には決して暗くはない。前者は笑えないコント様が続く耐久セックス物だし、後者は少々内容的に屈折しているものの、いわゆる美少女単体と呼ばれる形式の中にある作品だ。しかし、ココにはそのあまりに救いようのないセンスのタイトルが示す通り、果てしなく行き場の無い暗さがある。そしてこの行き場の無い息苦しいぼどの暗さこそが、あの時期僕が感じた、これ以上求めるべきもないリアルな感触であった。
もうひと月前くらいになると思うけれど、筑紫哲也の『ニュース23』に作家の林真理子が出ていて、見ているうちに何だか気分が悪くなったのでTVのスイッチを叩き切ってサッサと寝てしまったことがあった。何故かと言うと、林真理子は新刊『アッコちゃんの時代』のプロモーションで出演していて、八〇年代について訊かれていたのだが、「あの頃(バブルの時期)はすご〜く楽しかった」という発言をしていたからだ。アイロニーとして言ったのかもしれないし自嘲的な意味を込めていたのかもしれない、そもそも途中で寝てしまったのだからちゃんと見てすらいないのだが、それでも否応の無い違和感があった。
この人にはおそらく、あのバブルの頃を覆い尽くしていたどうしようもなく行き場のない息苦しさというモノを、感じ取る皮膚感すらなかったのだ、そして今も尚無いのだと思った。豊かであることが幸福であり、豊かでない者は不幸だと信じて疑わない感性、それこそがあの時代を覆い尽くしていた空気だった。そしてその豊かさの根拠は言うまでもなく、まったく実体の無い土地というものの膨れあがった価値だ。その根拠の無さ、実体の無さを重苦しく果てしないほどの気分の暗さとして感じていたのは、果たして僕だけだったのだろうか?
そんなことはない、例えばじゃがたらの音楽がそうだった。ジェイ・マキナニー、ブレット・イーストン・エリスの小説がそうだった。マキナニーの処女作『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』にの冒頭には「どんなふうに駄目になっていったんだ?」「最初はわからないほどに少しずつ、そして突然崩壊が来た」(高橋源一郎・訳)という『日はまた昇る』の一節が引用されている。僕はと言えば犬のように働き続けてそこそこの金を稼いでいた。南青山にほど近いアパートに住み、六本木ホディコン・ディスコ・ギャルという人種を使ってAVを撮っていたのだ。そして、やがて突然やってくる崩壊の暗さに押し潰されていった。
九〇年代に入って出会ったV&Rプランニング、安達かおる、カンパニー松尾、そしてバクシーシ山下という人々の撮るアダルトビデオには、その崩壊の後に残された瓦礫のようなモノが確かにあった。人前でセックスすることでしか生きられない「企画女優」と呼ばれる女達、AVに出なければ一生セックス出来ない「特殊男優」と呼ばれる男達。それらはすべて、あの「豊かであることが幸福であり、豊かでない者は不幸だと信じて疑わない感性」が生み出した瓦礫だった。
今日の夜明け前、何故高層ビルの冷たいプールでガタガタ震えながら泳いだ夢を見ていたのかはなんとなくわかっている。昨日新宿のジュンク堂で篠山紀信撮影による『六本木ヒルズ』という写真集を立ち読みしたからだ。8×10(エイト・バイ・テン)と呼ばれる大型カメラで撮影されたその中には、超高級スパの屋内プールで泳ぐ外国人女性モデルの姿があった。