今日も5時起き。風呂に入りストレッチしてアタマを目覚めさせ、昨夜書けなかった原稿を書く。朝イチという約束だったのだが10時半までズレ込むものの何とか終了。録画しておいた朝のワイドショーを見ながら遅い朝食をとる。竹島問題がまた再燃している。このニュースを眼にするたびに気が重くなる。憂鬱だ。何故だろう?
それは、論点がハッキリしてない、あるいは論点すら無い所でモメているからだ。論点とは何か? それは領土とは何か、ということだ。領土とは国家における重要な実体だ。あたりまえな話だが、領土を持たない国家はない。つまり、歴史性におけるアイデンティティとか、資源における経済性以前に大切なことなのだ。
例えてみるとそれは、人間にとっての肉体性のようなものだ。フィジカルである。コレもあたりまえだが肉体の無い人間は、いない。フィジカルとメンタリティとは一体だ。頭が痛かったり二日酔いだったり生理痛だったりすると人間はモノを冷静に考えるのが困難になる。だから健康というのは大切なのだ。人間は肉体によって左右される。男と女、大人と子供、健康な人と病気を抱える人とは自ずと違う。
健常者と障害を持った人とは違うのだ。人間はすべて平等だとか言い始めた途端、必ず弱者が困難に遭う。国家も同じだ。フィジカルという概念を忘れた国や集団は必ず暴走する。何故ならメンタリティというものには基本的に実体が無いから──厳密に言うと“脳”という実体はあるのだが、我々はそこに言語という便宜的な記号でしかアクセス出来ない──そこには妄想という概念がどうしても忍び込む。妄想は際限なく膨らむ可能性があるから、暴走したら止めることが難しい。ナチス、オウムが良い例だ。
韓国の人の考えはよく判らないから批判する気はないけれど、歴史観やイデオロギーだけで領土を考えるのは危険だ。例えば、前者で捉えれば中国は世界の中心だということになってしまうし、後者で考えればアメリカは世界の警察になってしまう。その理由で中国がチベットを力でねじ伏せる筋合いは何もないし、アメリカがイラクに爆弾を落として良い理屈は何処にも、ない。
ひるがえって日本を考えてみると、良く言われるように島国だから国境というものに対する意識が希薄だという前に、領土というものに対するリアリティがない。幕末、敗戦といちいち過去をちゃらにしてきたリセット国家だから歴史と一体になった連続性のある領土感、国家感がない。例えて言えばヨーロッパの人のようにウチの曾祖父さんは、曾々祖父さんはあそこの土地を巡る戦争で死んだという、肉体に染み込んだ歴史観がないのだ。そして、そういった血塗られた国の成り立ちが良くて、日本が平和ボケなのだという一元的な思想もまた不毛だからやっかいなのだ。だから出口がない、憂鬱になる。
領土とは、国家とは、自分の身体を手で触れていたわり愛おしむような、そんなリアルなものでありたい。今日63年振りで帰国した元日本兵の上野石之介さんは、ウクライナで「日本に帰ったら何がしたいですか?」と訊ねられ「桜が見たい」と言ったそうだ。国家をイメージするとは、そういうことだ。