5時起床。まだ外は真っ暗だ。今年75才になった母親が信心深い人で、ぎじゅ太が死んだ時に「写真を置いて毎朝お水をあげなさい」と言われた。写真か、と考えた時にそうだデジカメの写真をデスクトップの壁紙にすれば良いじゃないかと気が付いた。何しろ物書きという職業上、ほぼ一日中仕事場のiPCにへばりついているのだ。そうすればいつでも彼の姿を見ていられる。以来、毎朝起きるとすぐにiMacG4を立ち上げ、小さな茶碗に水を入れてデスクに置くのが習慣になった。その写真を昨夜、ぎじゅからみャ太と2匹のツーショットのものに代えた。
ぎじゅが生きていた頃、僕は彼らを「みャ太ぎじゅ」といつも一緒にしてに呼んでいた。「みャ太ぎじゅ、出かけてくるよ」とか「ただいま、みャ太ぎじゅ」「さあそろそろ寝ようか、みャ太ぎじゅ」というふうに。今思うと当たり前なのだが、ぎじゅが死んでからそう呼んだことが一度も無かったことに初めて気づいた。今日は茶碗を二つ、彼らが生前使っていたものに水を入れ、ごく自然に「さあ、みャ太ぎじゅお水飲みな」と言っていた。彼らは今、一緒にいるのだと強く思った。
7時からjogに出る。時間が早いせいかこの寒波のせいかムチャクチャに寒い。13日の朝もそうだったが、公園の池がさらにカチンカチンに氷っている。僕は宗教を持とうとは思わないし、神も仏も信じない。でも、儀式は大切だと思っている。特にそれが先人から伝わったものなら尚更だ。朝起きて死んだネコ達に水をやることだけで彼らが今何処かに、仲良く一緒にいることを感じる。それは逆に言うと、彼らが確かにこの世界に生きていたということを実感することでもある。
少し前、友人のAV監督
市原克也くんが、「世界は無限に存在するんですよ、トーラさん」と言っていた。それは僕が若くして逝った友達のことを想うたび、何処かに僕が死んで彼らが元気に生きている世界がパラレルワールドのようにあるような気がすると彼のブログに書き込んだ時だ。そう、何処かに僕が死んだ世界があって、そこではみャ太ぎじゅが元気にお互いの身体を舐め合ってグルーミングしているかもしれない。それを、先人達はきっと天国と呼んだのだ。
午後、自転車で動物病院へ行き、先生方に御挨拶をしてきた。その時のことはあまりに感慨深くて今ここに書くことは出来ない。何しろ10ヶ月以上に渡って毎週お会いしてお世話になったお二人なのだ。ただ、この先生方にみャ太を診て頂いて本当に良かったと思った。彼は幸せだったし、飼い主は幸運だった。