昨日書いた「最初は容易い」で思い出した。子どもの頃に読んだ白土三平の漫画にこんなものがあった。ある日、小作人のせがれが「おらぁ、もう百姓なんか嫌だ」と家を飛び出す。「じゃあ何をするんだ」と問われると忍者になるという。里の外れに仙人のような風貌の引退した老忍者が暮らしていて、その人物に弟子入りする。さぞ厳しい修行が待っているだろうと思っていると、仙人は土地に麻の種を蒔く。やがて芽が出たところで、若者に「飛んでみろ」と言う。人間の足首の位置ほどの小ささだ。ひょいと飛び越えてみせると「ハイ、今日は終わり」と師匠は去っていく。翌日また「飛んでみろ」と言われる。ぴょんと飛ぶ、「ハイ、終わり」。翌々日も飛ぶ。また次の日も。簡単じゃないか、なぜこんなことをさせるんだと思っているが、麻は成長が早い。
見る見るうちに若者の腰の位置を越え、胸の位置も越える。「こいつはえらいことになったぞ」と思いつつ、必死で頑張っていくと、数カ月後には自分の背丈を超える高さをジャンプ出来るようになっていた。どうでしょう、いい話だと思いませんか? 修練や学習の本質を現している。先日行われた
イチロー選手の引退会見、「毎日少しずつの積み重ねでしか、自分を越えていけないと思う」という、あの発言にも通ずる気がする。調べてみると麻というのは1日約3センチ伸びるそうです。そして大きなものは3メートルにも達するという。こうして忍者は修行を積み、敵の屋敷の塀にひらりと飛び乗ったそうな──もちろんこれは漫画や劇画、あるいは柴田錬三郎、山田風太郎といった人たちの忍法小説の世界のお話。
1日約3センチずつ高く飛ぶ練習をしても、誰もが実際に自分の背丈を超えるほど飛べるとは限らないだろうし、イチロー選手が語ったように「地道に進むしかないが、時には後退もする、ある時は後退しかしない時期もある」ということだと思う。その漫画も何しろ白土先生の作なので、若者は立派な忍者になりました、めでたしめでたしという物語ではなかったはずだ。結末までは覚えていないが、最期は敵対する忍者に惨めに殺されてしまい、結局得をするのは忍者を飼っている武将など権力者か、豪農や庄屋といった金持ちばかりという、プロレタリア文学的な構造だったはずだ。けれど、たとえそれでも人間は一歩ずつしか進めない。人間に出来ることは、どうやらそれしかないらしい。そう自分に言い聞かせて、毎日地味に原稿を書いている。進まない、まったく進んでくれないけれど。
※写真し先週金曜日。花曇りの朝。チューリップ畑の向こうに、散りかけの桜が見える。中央、少し右寄りには芝桜が満開。data:iPhone6 #Instagram #MOLDIV #X-PRO