昨日の続き。
『ライターズ(Writers)〜「書く」ことを職業にした人々~』第4回「池田園子(WEBライター/編集者)さん・後編」の本文にも書いたのだけど、その原稿を書き終えようとしていたある夜、ゴミ出しに階下へ降りていったら、大量の雑誌が紐で束ねられて資源ゴミとして出されていた。常々思うのだけど、人間って自分の意識の中に無いものを見ると妙な違和感を感じませんか? 東海林さだおさんがエッセイで、自分が禁煙に成功し吸わなくなってしまった途端、街で煙草を吸っている人を見かけると、「あれ、あの人、ケムリを吸い込んで出したりして、ヘンなコトしてるなあ」と思うようになったと書かれている。僕も同じような経験がある。新聞をとるをやめてしばらくした後、それは前のアパートに住んでいたときだけど、ある朝他の部屋のドアノブに朝刊が挟まれているのを見て、「あれ、何だろう、妙なものが挟まってるな」と感じた。もちろんそれは一瞬のことで、すぐに新聞だとわかるのだが、不思議な違和感があるのは確かだ。
その夜、古雑誌の束を見たときもそうだった。僕の場合、基本的に雑誌を買うという習慣がなくなったということもあるが、現在はそもそも「読み終わったら捨ててしまう雑誌」は買わない。書籍はもちろん、資料として常に手元に置いておく必要のない本は、図書館で借りる。けれどほんの10数年前までは、僕だって毎月大量の新聞を捨てていた。自分自身が雑誌に原稿を書いていたこともあり、出版社から毎月数冊の雑誌が送られて来た。それらの中で取っておく価値のないものは、何の躊躇もなく捨てていたのだ。何という無駄だろう、と今になって思う。資源ゴミだから再生紙になるのかもしれないが、紐で束ねて捨てて、それ業者の人が額に汗して回収してくれる。やはり時間と労力の無駄という気がする。結局のところデジタルの時代になり、捨てられる紙に何かを書くという行為そのものが無駄になってしまった。そんな気がする。
※写真は一昨日に続き8月2日の朝。百日紅と空と雲。夏の風景。data:iPhone6 #Instagram #MOLDIV #ELWOOOD