7時起床。やっとのことで少しずつ早く起きられるようになってきた。せっかく陽が長い季節なのだ。5時とは言わないけれど出来れば6時には起き出して活動したい。どちらにせよ夜遅くまでは気力が続かないのだから、昼間の時間を大切にしないと何も片づかない。8時過ぎからjog、116分。カラリとは晴れないが陽は射すので昼間はシーツやらタオルケットやらをバンバン洗濯してベランダに干す。僕はどうやら何種類もの花粉に反応してしまうらしく、外にシーツ類を干せるのはこの7月から9月の初めくらいだけだ。湿気はあるももの、やはり洗濯物が数時間で乾くのはやはり気持ちが良い──、
というようなコトを今日もずっと書き続けていられれば良かったのだが、昨日オリンピック開催が決まったロンドンでテロが起きたようだ。10時前、仕事を終えさて、と思ってTVをつけると『報道ステーション』が古館さんの「悪夢です」という言葉から始まった。こうなって来るともう東京に暮らしている限り、近い将来自分もしくは親しい人がテロで死ぬ可能性は避けられないのではないか? そう思うと惨憺たる気分になる。
最近は「テロには屈しない」という言い方があったりして、まるでテロを起こす人達はアタマのおかしい我々とは別の世界の極悪人なのだ、というような感じがあるけれど、この国でもほんの三十年前くらいにはごくフツーにテロがあった。各大学では中核と革マルがバールと鉄パイプで殺し合いをしてたし、テルアビブ空港では奥平剛士と安田安之が死んだ。冷戦という重圧があってアラブや東アジアでは苦しんでる人がたくさんいて、そこに自らを実存として捉えれば、ぬるま湯の平和の中に埋没するくらいなら闘争の中に身を置いて死を選んでも良いのではないか、というような生き方がこの国にもごくフツーにあった。
僕なんかはそのへんのメンタリティが判る最後の世代なんじゃないかという気がする。例えば、誤解を恐れずに書けば東アジア反日武装戦線の大道寺将司を、人間としてはすごくまっとうに生きようとした人だとその昔は真剣に思った。それは明らかにセンチメンタルな感情ではあるのだが、逆に言えばテロとか革命とか闘争とか言うモノには、常に過剰なセンチメンタリズムとエロティシズムが伴うものじゃないだろうか。自らの命を世界中唯一無比の実存と考えれば、大儀のために死んでいくのは当然美しい行為になってしまうし、そのためには犠牲はつきものだという論理に行き着いてしまう。背景は決定的に違うけれど、メンタリティの在り方としては七〇年代の日本の若者も、現代のアラブの青年達も基本的に変わらないのではないだろうか。
そんな世界にあって、僕みたいに洗濯物が乾くとウレシイとか茄子のみそ汁が美味いとか言ってるのは本当にノー天気でお気楽だと思う。お前がそういうふうにお気楽に生きられるのは日米安保日米同盟があったりアジアやアフリカの人達の貧困の上に成り立っているのだよと言われれば、ハイそうですと言うしかないのだが、逆に言えばこーゆーバカバカしくもお気楽な生活こそが大切なんだよと主張しなければとも思う。オレ、命がけでお気楽に生きてるぜ、というのは悪くない生き方だ。