7時起床。8時過ぎよりjog。iPod Shuffleには70年代のグレイトフル・デットを中心に選曲して入れた。昨日は少しちゃかして書いてしまったが、一夜明けワイドショーで繰り返し流される、佐村河内守氏のゴーストライターを名乗る新垣さんという人の会見を観るたび、気の毒で、可哀相で仕方なくなった。気分は暗い。他人事とは思えないからだ。僕はクラシックの知識など皆無だから、交響曲を書き上げる労力がどれほどのものかは判らない。だから比べてはいけないのかもしれないが、たとえば一冊の長編を書く場合、やはりそれないの苦労はする。だからその間は「書く」という作業だけにかかりっきりで、出来上がった時その作品がどのように売られるか、あるいは売るべきかなんて考える余裕がない。その結果、内容とはまったく違ったタイトルが付けられ、いかにも扇情的なキャッチ・コピーが帯に踊るなんてことはままある。
もちろん逆の場合もあって、本来地味でそれほど売れるタイプの小説じゃなかったものが、ひょんなことから映画化され、有名俳優が主演を努めたので大増刷されるなんてことはあるし、ノンフィクションやエッセイでも、人気の女性タレントが「好きです、泣きました!」とテレビで発言したことから版を重ねるということもある。いやそもそも、作家であれ作曲家であれ、無名の人がメジャーの出版社やレコード会社から本やCDが出せるということ自体がまず大変だ。例の『交響曲第1番《HIROSHIMA》』が出来上がったのが2003年とあるから、現在43才の新垣氏は30代前半。佐村河内氏の経歴、< 4歳で母親からのピアノの英才教育が始まり、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなして「もう教えることはない」と母から言われ、以後は作曲家を志望。>が、実は新垣氏のものだったという説もあるから、元々才能はあった人だろう。年齢的にも気力・体力が充実していたはずだ。
しかし無名でありチャンスに恵まれなかった──いや、これは判らない。ご自身の専門である現代音楽の分野ではそれなりの評価を受けていたのかもしれない。だから僕自身の30代半ばに置き換えて考えてみると、「自分はそれなりに文章が書ける」と思っていた。「ただ一冊の本を出せるチャンスが無いのだ」と考えていた。実際のところ40才になって初めての単行本『アダルトビデオジェネレーション』をやっと出版出来たわけだが、これも幾つかの出版社に持ち込んで上手くいかず、出せるまでに3年ほど時間がかかった。そんな時、他人の書いたプロットを与えられ、「これ、長編に膨らませてくれない?」と言われたら、絶対にやっていたと思う。たとえそれが通俗的で面白味のない筋立てだったとしても、「いや、俺だったらココに伏線を張って」「こういうキーマンになる登場人物を出して」とか考えて、面白く夢中になって書いたに違いない。
自分の名前が出ない気楽さもある。また、本来自分の発想にはない内容だからこそ、より大胆に技能を発揮出来るかもしれない。やらなかったのはただ単に、そういう話が何処からも持ち込まれなかったからだ。道徳的な問題など、考えもしなかったろう。それよりも「長い文章を書ける場が欲しい」という気持ちの方が勝ったはずだ。そして現状を考えれば最初に戻るけれど、今は「作る」という行為と「売る」ということがかけ離れすぎている。「作る」側は「売る」ことに関して余裕がなかったり関わりづらい面があり、「売る」側は「作る」側に寄っていない。内容云々よりもいかに付加価値を付けるかが勝負だ。そのセコイ例が先に書いたような<内容とはまったく違ったタイトル>や<扇情的なキャッチ・コピー>であり、大がかりなのが<全聾の作曲家><現代のベートーベン>だったに過ぎない。新垣隆氏にふりかかった悲劇は、誰にでもありえるありふれた物語なのだ。