昨日の続き。フィリップ・グランドリュー監督作品
『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』は、冬の夕暮れ、小さな公園から始まる。ブランコに乗る少女、おそらく小学校の低学年くらい。その背中を押してやるのが足立正生だ。薄暮といっても相当暗い。映像設備がかなり良いと思われる東京日仏学院のスクリーンであっても、眼を凝らしてやっと何が映っているのか判る、といった程度。カメラはおそらく小型の民生機。ハイビジョン等ではないと思われる。にも関わらず、画は異様に美しい。そこに足立による長いモノローグが被せられる。けれどそれも独白というよりは呟きであり、しかも言説はグルグルと堂々巡りを繰り返す。画面は少女のアップから彼女の背を押す足立とのツーショットへ、そこから母親らしき女性の姿が少しだけ映り、やがて足立はもうひとつのブランコへと座る。長い長いワンカットである。
1939年生まれの足立正生は現在73才だが、その幼い少女は彼の孫ではなく娘のようだ。一瞬「パパ」と呼びかける音声がある。しかし、本当のところは判らない。そういったことに関しての説明はない。ただ中盤に『幽閉者 テロリスト』のプロデューサー・小野沢稔彦を交えて酒を飲むシーンがあり、「後から足立の妻と娘も合流した」という短いテロップが出るだけだ。「妻」と称される女性は中東の人のようにも見えるが、そこにも一切の注釈はない。いや、この映画には全編にわたり「何かを説明する」という行為がないのだ。それでも僕にとってはこの74分間で、足立正生という人物に対する、すべての謎が解けたような気がした。1963年に発表された自主映画『鎖陰』で若き天才と言われ、時代の寵児となった映画監督が何故祖国を捨て中東の地でゲリラ活動をするに至ったか? もちろん革命の時代だったし、大島渚もゴタールも、すべて政治的だった。それは頭では理解出来るのだけど、疑問は残っていた。
作中、足立がアンドレ・ブルトンについて語る短いシーンがある。「『シュルレアリスム宣言』を読んだ時、すべてが判った。映画も、政治も、革命も、僕の中にもやもやとしていたもの、そのすべてをぶちまければいいのだと。だから僕は、シュルレアリストなんだよ」と。順序立てることも成り立たせることも、ましてや説明する必要なんて何もない。ただそこに、感情として放り出してみればよい。それこそが表現であり生き方であり、映画なのだ。僕がかつて足立正生の『略称・連続射殺魔』『銀河系』という作品に出会った時の印象そのものだった。1954年生まれのフィリップ・グランドリュー監督は、2008年に自身の作品が東京で上映された際のティーチ・インで足立と出会い、「極めてラディカルな事象に対する好みを共有していると感じた」そうだ。彼もまた、世界はそのように表現されるべきと信じているのだと思う。『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』は、6月24日
『20thアニバーサリー/フランス映画際』で上映。また、今夏、アップリンクにて公開予定。
※写真は昨日に引き続き東京日仏学院。細い廊下の向こう、教室の窓辺に、誰かのジャケットが掛けられているのが見えた。data:ニコンD70、AF-S DX Zoom Nikkor ED 18-55mm F3.5-5.6G。ISO・200。