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5時起床。早朝より原稿書きを始め、出来るだけ進めて、午後1時半より外出。9月19日の日記に書いたように、母親のリクエストで映画、新藤兼人監督作品『一枚のハガキ』を観にいく。伊勢丹裏手のテアトル新宿にて、午後3時からの回。伊丹十三の実父で、『赤西蠣太』『巨人伝』、または『無法松の一生』の脚本を手がけたことでも知られる映画監督・伊丹万作は、旅館に宿泊する際宿帳に職業を記入しようとして、少し迷ってから「山師」と書いたと言われている。その真意はともかくとして、映画監督は巨額の製作費が必要となることからか、時には狡猾に、あるいは政治的に振る舞わねばならない職業だと思う。
けれどそんな中にあってこの日本最高齢の巨匠は、無骨なまでにストイックに、清貧を貫くが如く映画作りを続けてきた人物である。そんな作家が「人生最後の作品」とする映画が面白くないはずはないのだが、いやはや、まあ素晴らしかった。物語はこうだ。太平洋戦争末期、奈良県の天理教本部・南礼拝場に100人の召集兵が集められる。主人公の松山啓太(豊川悦司)に、六平直政演じる森川定造など、つまりオッサンばっかりだ。日本はいよいよ敗戦が濃厚となり、本来敵と戦うべき若者はもう数少ないのだ。で、彼らが何をさせられているかというと、予科練の生徒達が訓練する宿舎の掃除である。しかし戦況は益々窮し人員は不足し、やがてそんな中年男達までもが戦地に駆り出されれねば済まなくなる。 そこで上官はクジ作って彼らに引かせる。当たった者60名はフィリピンへ、残り40名は残る。六平は当たって戦地へ、豊川はハズれて別の予科練施設へ送られるが、そこでも再び招集がありクジ引きが行われ、彼はまたもや戦争を逃れ、最後の4名の中に生き残ったところで終戦となる。六平を乗せた船はフィリピンに着くこともなく、アメリカの潜水艦に攻撃されて沈む。犬死にである。そして豊川の手元には一枚のハガキが残される。六平の妻・友子(大竹しのぶ)が彼に宛てたもの。そこにはこう書かれている。「今日はお祭りですが/あなたがいらっしゃらないので/何の風情もありません/友子」。兵舎では封書を書くことは禁じられている。ハガキは検閲があるのでありきたりのことしか書けない。そこで六平は豊川に託す、「俺はたぶん死ぬだろう、もしもお前が生き残ったら、女房に『ハガキは確かに読んだ』と伝えてくれ」と。 この映画のテーマとは何か? ひと言で言えば「誰が死んで誰が助かるのか、誰が生き延びて誰が犬死にし、海の底に沈むか? その違いは日頃の行いでも人の良さでも努力でもなく、ましてや崇高な運命や神様の思し召しでもなく、単なるクジ運の良さでしかない──」ということだ。これを、御年99才の作家に言われてしまうと効く。強烈に響く。しかも、ココまでの映画前半部は、ほぼ新藤監督自身の体験だという。ただし問題はそこからだ、と映画は続く。じゃあクジ運良く生き残ったヤツはそれで良いのか、それが幸せなのか、違うだろう、ということだ。世の中には「死んだ方がマシ」という言葉があるが、大竹しのぶ演じる友子は、まさにそのような戦後を生きていかざるを得ない。新藤兼人が本当に伝えたいのはこの先だ。つまり、クジ運が良かろうが悪かろうが、過酷な災難があろうがなかろうが、アンタのその先の人生は、アンタ自身が作っていかなきゃならんのだよ、と。 ところでこう書くと、如何にもシリアスで重々しい作品かと思われるかもしれないが、まったく違う。これは最初から最後まで、観客がくすくす笑いながら観る映画である。何しろ大竹しのぶと同居している六平直政の両親、そのくたびれて今にも死にそうなジイサンを演じるのが柄本明。バアサンには倍賞美津子と来た。このキャスティングがコメディでなくていったい何だろう(笑)。しかも豊川悦司演じる啓太は運良く生き残ったものの、戻ってみれば家はもぬけの殻。女房は実の親父とデキて逃げているのだ。それを伝える叔父が津川雅彦でその女房が絵沢萌子。で、啓太の女房というのは大阪のキャバレーに勤めているのだが、これがもう、タヌキがマリリン・モンローの顔真似してるんじゃないかという金髪に厚化粧の川上麻衣子。さらに友子に横恋慕している村の世話役(大杉漣)と豊川悦司が決闘するシーンに至っては、ほとんど井口昇の世界である(←判りにくい例えで恐縮ですが、要は徹底的に戯画化され、ほとんどマンガのコマ割りの如きカット割りがなされているということです)。 何故このような演出がなされているのか──? 公式ウェブサイトには「反戦映画」と書かれているが、それは判りやすく宣伝するための方便であろう。これは、戦争に反対する映画ではない。憎しみの映画だ。何故人間の生き死にがクジ引きで決められなければならないのか、何故当たったヤツは否応なく海の底に沈んで犬死にせねばならないのか、そして生き残った連中まで、何故にココまで苦しまなければならないのか? その不条理さ、無慈悲さ、異常さ、バカバカしさに、反対したって何の意味もない。だったら憎んで憎んで憎み切って、その姿が滑稽で笑ってしまうほど憎んでやるしか、人が生きる術なんて無いじゃないか? だからこそ大竹しのぶ演じる友子は作中絶叫し続けるのだ。「何ンでうちの人じゃなくてアンタが死ななかったのよッ!」と。そのためにシナリオの達人・新藤兼人は、巧妙な伏線としてハガキの文面を、あのような穏やかなものにしたのだ。題名を『一枚のハガキ』としたのだ。「今日はお祭りですが/あなたがいらっしゃらないので/何の風情もありません/友子」、これこそが、戦争によって踏みにじられた人生だ。これを憎まずに、いったい我々は何を憎めば良いのか。繰り返すけれど、これは笑ってしまわなければ悲しくてやり切れないほどに、憎しみに溢れた映画なのだ。
by tohramiki
| 2011-09-29 14:45
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