Amazon.co.jpで『レコード・コレクターズ』誌のバックナンバーを数冊まとめて買い、例によってトイレの本棚に置き、仕事の合間にパラパラと眺めている。すると2010年03月号の「リイシュー・アルバム・ガイド」に、82年発表、バナナリアンズ唯一のアルバム
『BONER』が、未発表音源は加えたメモリアル・エディションとして再発されたという記事を見つけた。元々は写真家・地引雄一氏が設立した「テレグラフ・レコード」から発売された。同レーベルからはジュネ率いるオートモッド、ヒゴ・ヒロシのチャンス・オペレーション、あるいは山口冨士夫、リザードといったアーティストのアルバムがリリースされた──と書くと、だいたいの雰囲気がつかめるのではないか。
バナナリアンズは、藤井サンスケこと、藤井義之という人物が中心になっていたニューウェーヴバンド。ライヴではスカやレゲエのリズムを取り入れた、ごきげんなダンス・ミュージックを演っていた。僕が知り合った頃、サンちゃんはライヴハウス下北沢ロフトの店長だった。歳は三つか四つくらい上だったろうか。その時はカントリー&ウエスタンのバンジョーを弾いている、というようなことを言っていたと思う。こう書くと友人だったみたいに聞こえるけれどそうじゃない。ある夜、08年に死んだ親友のKとふたりしてロフトで閉店間際まで飲んでいた時があった。客はもう僕らだけになり、レコード室から出て来たサンちゃんが、「そろそろ閉めるけど、君達はどうせ始発まで居るんだろう、一緒に飲もうか」というようなことを言ってくれた。
物静かだけれど、そんなふうにとてもフレンドリーな人だった。まあ、あの頃のロフト、そして下北にはそんな優しい雰囲気が溢れてはいたのだが。その後も飲みに行くたび、「サンちゃん、来たよー」「やあ、いらっしゃい」と言葉を交わす程度の仲だった。とても痩せていてエルヴィス・コステロ風の眼鏡をかけ、いつも下北ロフトの小さな四角いレコード室にいて、次に流すビニール盤を選んでいる──そんなイメージだけがある。上記『レコード・コレクターズ』には森サリーさんの文章で「編集と解説は主軸メンバーであった画家の古沢隆広(kbd)」と書かれていて、そうか、古沢くんは今、画家になっているのか、と初めて知った。
古沢くんと、どうやって知り合ったかは忘れた。Kと僕がやっていたR&Bバンドのピアノを、何度か手伝って貰ったことがある。彼はプレッシャーという名の、シーケンサーとシンセサイザーを使ったキーボード・トリオを組んでいた。DEVOとYMOを合わせて少々乱暴にしたような、やはりダンサンブルな音を出すバンドだった。そうだ、書いているうちに思い出して来た。おそらく80年か81年の大晦日、新宿ロフトでオールナイトのコンサートがあり、古沢くんが「プレッシャーとは別のバンドで出るから観に来てよ」と言い、Kと二人で行ったのだ。それがバナナリアンズだった。僕らは「ロフトの人」と思っていたサンちゃんが、ビシッとした細いズボンの、三つボタンのニューウェーヴ風スーツに身を包み、バンジョーをエレキギターに持ち替えて登場したので驚いた。アップテンポなスカビートの曲をやる前、「みんな、ステップの用意はいいかな?」と、彼がとてもクールに客を煽るのがカッコ良かった。
上にリンクしたAmazon.co.jpのページにもあるが、サンちゃんこと藤井義之氏は、1991年、遠いドミニカ共和国の地で亡くなった。そのことを僕は、1999年に発売された『ロック・クロニクル・ジャパン (Vol.2) 』(音楽出版社)というディスクガイド本で知った。今日、「バナナリアンズ」で検索してみたら、ロフトの創始者で、現ロフトプロジェクト代表・ロフトプラスワン席亭(という肩書きで良いのかな?)平野悠さんによる
「おじさんの眼」というサイトを見つけた。下の方へスクロールしていくと、「ロフト35年史戦記・第22回後編・プロローグ(1990〜)」〈カリブ海最後の楽園・ドミニカ共和国〉という一文に、「S君」として、サンちゃんのその後が書かれている。