8時に起きる。まだ喉が痛い。いつものように風呂に入りストレッチなどしたのだが、走り出そうかどうか迷う。果たして本当に花粉なのか。例えば季節はずれの風邪だったりしたら発熱してしまう。こういう時はぼんやりとして身体からの応答を待つしかない。
もう一週間走っていないのに「走りたい」気にならないのはやはり体調が悪いのかな、などと思ってTVを付けると、いつの間にか10時前になっていて朝のニュースショウは終わりかけている。そうだ、確か日テレの『ザ・情報ツウ』は10時過ぎまでやってるんだよな、と思ってチャンネルを変えるとコラムニストの勝谷誠彦さんが出ている。一瞬、アレ? と思ったのだがそう言えば春の改変で月曜日に移られたとご自身のWeb日記で書かれていたなと思い出す。
さっきテレ朝の番組でも流れた尼崎の列車事故のニュース。その頃は列車が踏切で自動車を引っかけて脱線したと報道されていたので、何ンでこんなに繰り返し流れるのだろうと思っていたら次の瞬間画面に、おそらく今日一日で日本中の人が眼にしたであろうあの映像が流れた。よおく見ても電車がどんなカタチになっているのか上手く理解出来なかった。鉄で出来たモノがあんなふうにくしゃくしゃになっているという事実がアタマの中で組み立てられないのだ。冷静に考えると、あのぺしゃんこな中に誰かがいるのだ。誰もいないとは考えられない、そう気づくと惨憺たる気持ちになる。
以前、あれは確か奈良の誘拐事件の後だっただろうか、TVのトーク番組に五木寛之さんが出ていて、アナウンサーの人が「こういうなすすべのないやりきれない事件が起こってしまった時、我々は何をしたら良いのでしょう」と訊いた。その時五木さんは「こういう時我々は何も出来ませんが、ともかく悲しいなあ、可哀想だなあ、二度とあってはならないことだなあと強く心に想うことではないでしょうか」というような意味のことを言っていた。
それはきっと、決して他人事として受け止めないという意味だと思う。想像力とか同情心とかいう意味ではない。自分が関わりがあると思わないと問題が曖昧になるからだ。私は関西に知り合いはいないから良かったとか、私は朝の通勤列車には乗らないからとか、今度電車に乗る時は先頭車両は避けようとか言ってるとモノの本質を見失う。問題は棚上げされ、放置されるだけだ。
それは日本は平和だから憲法改正なんて必要ないと言っているのと同じだ。また、平和ボケという言葉で自嘲するのも逆の意味で同じだ。平和はありがたいし戦争はイヤだ。だけど世界中に紛争があって幼い子供を含めた人々が死んでるのは本当のことだ。時にTVの報道というのは問題を曇らせる。違う場所へ逃がしてしまう。悲しい事件で死んだ子供の葬儀が中継されると、ついつい自分の子供じゃなくて良かったと思ってしまう。だけどあたりまえの話だがそうやって他人事として安心してしまうと何も解決しない。
事故の原因がどうかはわからないが、前の駅で列車に1分30秒の遅れが出たと言われている。少なくとも他人事だと思わなければ、「別に電車なんて1分、2分遅れたっていいじゃねーか」と思える。1分、2分遅れたら次の乗り継ぎに間に合わなくて10分、20分遅れ、会社に遅刻する人もいるかもしれない。結果、口うるさい上司にぶつくさ言われたり、最悪来月の給料に響いたりするかもしれない。でも別にイイじゃんそんなの、それより安全に運んでくれよと誰もが思えば、たぶん色んなことが変わる。