高田渡さんが亡くなられたそうだ。寂しくなるだろうな、と思う。渡さんは中央線、特に吉祥寺界隈にとっては特別な人だった。
遠く七〇年代の昔から、吉祥寺近辺を遊び場にしてる連中からはよく話を聞いた。いわく「昨夜ぐぁらん堂に行ったらワタルがいたよ」「いせやで飲んでた」「井の頭公園をふらふら歩いてた」等々。誰もが失礼にも「ワタル」「ワタル」と呼び捨てにした。それだけ親しまれ有名だったし、街というものにとけ込み一体となっているような人だったからだろう。
僕も中央線沿線に暮らし始めて15年、何度もその姿を見かけた。夜の吉祥寺の街で、終電近い井の頭線の中で。渡さんはいつも少し赤い顔で気持ち良さそうに酩酊されていた。こちらもお酒が入っている時は、気が大きくなって何度声をかけようと思ったことだろう。「ワタルさん、子供の頃からずっと聴いてます。もう一軒ご一緒してもらえませんか」と。だけどいつも思いとどまった。相手がどれだけ自分にとって有名な人であろうと、そうすることは酒飲みの仁義に反するからだ。気持ち良く酩酊してる時には放っておいて欲しい、知らないヤツに気安く声なんてかけて欲しくない、それは誰だって同じだ。だけどこうなってしまうと、一度だけでも「ファンなんです」のひと言くらい、言っておけば良かったと思う。
そんなわけで高田渡さんとは一度もお話したことはないが、息子さんの高田漣さんには一度だけお会いしたことがある。もう、五、六年前になるだろうか、古い友人で関西在住の長田“taco”和承というスライドギター弾きが久しぶりに上京し、下北沢のラ・カーニャというライヴハウスに出演した時だ。やはり古くからの知り合いでシンガー・ソングライターでベース弾きの
大庭珍太、パーカッション奏者のANNSANとら共に漣さんも演奏した。
漣さんはまだミュージシャンとしてCDデビューする前だった。大庭珍太は七〇年代後半、渡さんのヒルトップストリングスバンドでウッドベースを弾いていたからたぶん漣さんを子供の頃から知っているのだろう、ライヴが終わりその場で打ち上げになった時に、「ワタルが死んだら、漣はオヤジの持ってる高いギターもらえるんじゃねーの」というようなことを言った。漣さんは「でもね、『コレは絵本作家の長谷川集平くんにあげるヤツ』とか、自分でもう決めてるみたい。僕のぶんは無いかもね」と言って笑っていた。
タコヤキという愛称で呼ばれる長田和承は、僕ら七〇年代からのロックファンにとってはカルト的なミュージシャンであり、また、アーティスト達からは常に注目される、いわゆるミュージシャンズ・ミュージシャンでもある。だからその日は加川良さんや村上律さん、桑名晴子さんらそうそうたるメンバーがゲストとしてステージに立った。そうだ、あの夜は西岡恭蔵さんもその場にいたのだ。
亡くなった人も生きている人も含めて、日本には本当にすごいミュージシャンがたくさんいると思う。日々テレビから流れてくる音楽だけ聴いていると、この国には聴くべきモノなんて何も無いんじゃないかと思う。だけど、少なくともロックやブルーズに関してだけは、名もない小さなライヴハウスや、街角にそれはしっかりとある。少なくとも十代の頃からそれを享受してこれた僕はとても幸せだ。
高田渡さん、ありがとうございました。そして来世に二日酔いで目覚めないよう、ゆっくりと眠ってください。