6時起床。早朝より原稿書き。1本仕上げてから午後より外出。先週に引き続き、母親のお供で。
ラピュタ阿佐ヶ谷へ。特集〈孤高の名優・佐藤慶〉。本日は
『絞死刑』1968年創造社・ATG製作。個人的には初めて観た大島渚作品であり、以降最も繰り返し観ている。たぶん、今回が6回か7回目。その度に印象は違うが、最高傑作だという想いは変わらない。好き嫌いで言えば、1986年フランス製作の『マックス、モン・アムール』というキュートでエロティック、心惹かれる映画もあるのだが、この理屈っぽさと思想性には敵わない。
初めて観たのは高校生の時だ。いや、その前に『映画芸術』だったか、それともATGの『アートシアター』だったか、スチール写真入りのシナリオを読んだ。子供心に「これはとんでもない映画」だと思ったが、先週書いたように、当時何故か大島作品は名画座にかからなかった。それで2年後くらいにやっと、都営三田線千石駅にあった「三百人劇場」の〈ATG映画特集〉で観た。家に帰り「今日『絞死刑』を観て来たよ」と言うと、酒を飲んで酔っ払っていたオヤジに「どうせお前みたいなヤツは、小山明子が登場するシーンが冗長だとか言うんだろう!」とカラまれた。たぶん、同時期に若い批評家か何かから同様の批判を受けたのだろう。とばっちりもイイ所である(笑)。
小山明子演じる在日朝鮮人の「姉さん」が突然共同幻想(妄想?)として現れるのには、確かに賛否両論があったはずだ。そもそも妄想であったとしても、死刑囚R(尹隆道)が殺してしまった女子高生が、何故チマチョゴリ姿の朝鮮人女性に変わってしまうのか? そこにストーリー上の飛躍はあり過ぎるのだが、まあ、そんなこと言ってしまったら、「絞首刑を執行された囚人の脈拍が止まらず、心神喪失なって生き返る」という大前提からして成り立たなくなってしまう。そもそもが荒唐無稽な話なのだ。だいいちそんなことよりも数百倍大切なのが、先週も書いたように変態的とも言える秀逸なカメラワークであり、圧倒的な台詞(脚本=田村孟・佐々木守・深尾道典・大島渚)であり、大島の演出である。いや、この人の場合は哲学と言った方が正しいと思う。
佐藤忠男は処女作『愛と希望の街』を評し、「大切なのはムードじゃない、論理だ。と作者は言いたいのだろう」と書いている(『大島渚の世界』筑摩書房)。ゆえに単なる「演出」ではなく「哲学」なのだ。映画『絞死刑』は、在日韓国人高校生が二人の女性を殺害した、1958年の
小松川事件を題材にしている。劇中の台詞としても使われたが、犯人の少年は拘置所内にて、「彼女達(被害者)が自分に殺されたのだという思いは、ベールを通してしか感じることができない」と語ったとされる。これは心神喪失による責任能力の有無ということにも通じるものだけれど、それ以前に、ある時期若い殺人者達が口にして話題にもなった、「人は何故人を殺してはいけないのか?」という問題に行き当たる。
人間は、自分が刺されれば痛いが他人を刺しても痛くも痒くもない。究極的に他人の痛みが判らないならば、何故「人を刺してしはいけない」と言い切れるのか? ヴィトゲンシュタインはそれを言語ゲームと呼んで、「自分が刺されれば痛いのだから、他人の痛みも判るようにしよう」と取り決める文化が生まれたとしたそうだが、大島はその代わりに幻想としての朝鮮人女性を登場させる。死刑囚Rは「姉さん」と再会し、和解し、愛情を感じた時初めて、他人の痛みを理解する。「愛する姉さんが誰かに傷つけられたとしたら、きっと僕も痛いだろう」と。この謎の女は果たして同胞の象徴なのか、あるいは日本人から見た他民族なのか。わざわざ小山明子が演じていることから考えれば、後者のメタファーという気もするのだが、まあ、正直よく判らない。
ともあれ、「人は何故人を殺してはいけないのか」という命題が明らかになった時、映画は初めて次のロジックへと到達出来る。曰く「果たして日本人は朝鮮人を裁けるのか?」いや、「そもそも国家が人を殺して良いのか?」。つまり、大切なのはムードじゃない、論理だ。そして最後の最後、小松方正(検事)による名台詞へと続く。「R君。今、君は国家を見た。国家を感じた。国家はそこにある。君が国家なのだ──」。