本日11月25日は、親友Kの一周忌だった。あの日がまるで昨日のように思えると同時に、長く果てしない、まるで終わりのない日々のような一年だった。神はそれを乗り越えられる者にしか試練を与えないというが、病気が発覚してからというもの、それはまるでヤツのためにある言葉だなと思い続けた。ガンの中でも特にたちの悪い肺ガン、それもステージ3Bという深刻な状況にありながら、会うとKは常に穏やかに笑っていた。亡くなった一年前の日記にも書いたが、少しも死を恐れず、かといって「ガンと戦うぞ」という気負いすら見せず、いつ会っても「まあね」「相変わらずだよ」「まあまあだね」と言い続けた。
Kの妻であるCより、脊髄や脳にも転移が見られ、もう回復の可能性はないので退院させ自宅に連れて帰ったと聞かされたのが2008年の10月。見舞いに行くと、ほとんど寝たきりとなり、どんな体勢でいても、何をしても辛いという状況にあっても、僕に彼の愛した焼酎を「飲めよ」と勧め、娘に「トーラに注いでやれ」と言った。夜が更け、薬が効いて微睡んでいても、僕が「また来るよ」と声をかけると、穏やかに微笑んで僕の手を握った。
40度以上の熱が出て意識レベルが相当低下した、酸素吸入を始めているという知らせを聞いたのが、確か11月の22日か23日。その日夜遅くなって、共通の古い友人Y氏よりメールが来た。いや、明けて24日未明だったのだろうか? Y氏が見舞いに買っていったプリンをひとさじ食べたとあり、少しだけ安心した。熱さえ下がってくれれば、と思った。24日のこの日記を読見返すと、「女性には腕枕されるのが下手な人と上手な人がいる」なんてノー天気なことを書いている。いつ何が起こってもすぐ駆けつけられるよう仕事に追われていたのだろう。だからたぶん、日記にはまったく関係無いことを書いたのだ。そして仕事を一段落させ、翌朝アップする予定の日記を書き上げてから会いに行った。
新宿東口地下道で偶然、「福岡・西通りプリン」というのを見かけたので買っていった。熱は下がっていなかった。眼は開いているものの意識はあるか無いか判らず、手足がかつての2倍も3倍も腫れていた。プリンを口に持っていってやるも食べてはくれず、ただ、Cが「薬を飲ませてあげて」というので、おそらく経口のモルヒネだろう、通称〈麻薬〉と呼ばれるゲル状の液体をスプーンで持って行くと、それは少しだけ飲んだ。「明日にはFが来るよ」と、石垣島で暮らすバンド仲間のことを告げると、眼が光ったような気がした。それてだけは理解してくれたのだと思った。
終電が近くなり、帰る時間が来ても熱は下がるどころか41度にまで達した。此処まで熱が上がって、人は生きていられるのだろうかと思った。いったい誰が、何のために此処までの試練を与えるのだろうと考えた。かつてKの助監督を務め、結果的に葬儀の際お棺の蓋を閉める時にカチンコを叩くことになるMと二人して、世田谷線から小田急に乗り継いで帰った。互いに長年Kの間近にいたというのに、僕らはその夜が初対面だった。新宿で別れ、家にたどり着いたのは午前2時前。おそらく眠れぬまま、あまり酔えないままに朝までひとり酒を飲んだのだと思う。起きたのは11時過ぎだった。長く風呂に入り頭を起こし、仕事にかかろうとした時、携帯にCからの留守電が入っていることに気づいた。彼女いつもそうしてくれるように、「昨夜はありがとう」という伝言だと思っていた。再生してみると「亡くなったので」という連絡だった。
この世界でいちばんの親友が死に、この世界で誰よりも僕を理解してくれる男がいなくなって、悲しくないと言えば嘘になる。しかし彼の不在によって、僕の残りの人生は決まった。もっともっと長く生き、もっとたくさんの仕事をしたかったであろうKに対し、恥ずかしくない生き方をすることだ。