片付けなくてはならなことがたくさんある。時間を作るためにはまず早起きすることだとは思うのだけれど、暗いうちから起きるのは何となく嫌だ。朝起きて部屋の電気を点けるのが嫌なのです。我ながら理由は判らないのだけれど──なので7時起床。お風呂に入り身体をじっくり温めてからjogに出る。陽射しは強く、風も無いのでこの時間にしては暖かい。114分走る。TVのニュースやワイドショーは年末から延々と“派遣切り”の話題を流し続けている。よくあるのが職と住まいを失った人にカメラが密着するというリポート。僕の場合決して他人事ではないし、ましてや画面に写る人達のほとんどが同世代なので、何とも身につまされる。しかし正直、同時にイヤな感じもある。背後に垣間見える制作者達の思惑である。そこには、「俺は、私達はまだマシなのだ、幸せなのだと」他人の不幸を見て安心する──そんな視聴者達の気分を煽る演出がある。
年末、ニュージーランドに長く暮らす女友達Yから、かの地では税金が所得の1/3と聞かされた。「でも誰も不満は言わない。保障に関して満足だから」と言う。北欧などでも同様だという話は聞いていて、しかしいまいちピンと来なかったのだけど、Yは具体的な例を教えてくれた。「例えば私が『来年は一年間仕事を辞めてもう一度大学で勉強します』と言うとするじゃない? そうしたら政府がそのぶんの生活費を出してくれるのよ」と。
これはまいったね──と思った。50才を迎えた女性が学ぶのを国が支援してくれる。つまりそこには、彼女が勉強するということが、いずれ社会に何らかの形で還元されるであろうという、国民全体が共有するコンセンサスがあるのだ。「勉強する→イコール社会に役立つ→誰かが恩恵を受ける→結果、誰もが幸せになれる→だから皆で税金を払いましょう」という図式である。この国日本のように勉強とはイコール受験であり、優良企業に就職する手段であり、要は勝ち組になるための方法論なのだという思想と180度違うのだ。
悲しいことだが我々はずっとそのように生き、そのような国を作って来た。このコンセンサスを崩さない限り、「親方日の丸」を目指して受験を勝ち抜いた役人はずっと甘い汁を吸い続けるだろうし、負け組になりたくない企業は、派遣や期間労働者を永遠に切り続けていくだろう。学者や専門家の中には、この程度の雇用不安は、企業のワーク・シェアリングで切り抜けられるという人もいるそうだ。しかし、TVで寒空に放り出された中年男達を見て、「ああはなりたくない」と安心している庶民がいる限り、それは変わらない。