6時半起床。7時よりjogに出る。124分走る。此処数日、どうも集中力に欠けることもあり、書いても書いても原稿が終わらない。何か仕事中の気分転換をと思い、本棚を眺めふと眼に付いた村松友視
『夢の始末書』を手に取り、トイレに置いて休憩のたびに2、3ページずつ読む。もう何度読み返したか判らない、とても好きな小説だ。僕の持っているのは角川書店版の単行本で、帯に「武田泰淳、三島由紀夫、野坂昭如、唐十郎、水上勉、椎名誠・・・そして吉行淳之介。作家とのライブの時間を喰い続けた19年の編集者生活」とあるように、これは村松氏が中央公論の文芸誌編集者だった頃を回想した自伝的作品である。
奥付を見ると昭和五十九年八月三十日初版発行、西暦にすると1984年だ。僕はヌードグラビア誌の編集をしていて、ほとんど寝る暇も無いような生活をしていた頃だ。きっと買って最初に読んだのは、原稿取りや取材に向かう電車の中だったのだろう。村松氏は文芸誌『海』の編集者だった。だから僕のような三流どころの雑誌編集者と一緒くたにして語るのはおこがましいのだけれど、帯にも引用された「ライブの時間」というニュアンスは判るような気がする。当時はメールなんて無いから原稿を受け取りに行って、帰りの電車の中で読み「ああ、この人に原稿をお願いして本当に良かった」としみじみ思ったこと、取材の流れでインタビューイの人と飲みに行き、交わした会話からその店の窓から見えた風景までが、今でもまるで映画を見るように甦って来る。
と、まあ僕の話はともかく、村松氏は驚異的とも思える記憶力でその、作家達との「ライブの時間」の時間を描き出していく。武田泰淳と相対し、互いの間を測ったような会話を交わしているそこへ、ビールと肴を持って絶妙なタイミングで現れる百合子夫人。視力を失った老作家・舟橋聖一が鮮やかに歌舞伎を語るのに対し、「この人は本当は眼が見えているのではないか?」と疑いつつ口述筆記をする。また、文壇では恐い人と言われる永井龍男を、緊張しながらも多少の気負いを持ちつつ鎌倉へ訪ねる──それらは、まるで読んでいる自分までもがその場にいるかのような錯覚に襲われる。仕事の合間にパラパラと、それでも半分ほど読んでしまった。明日もそんな休憩の時間が楽しみになった。