兵庫県の明石へ、母方の法事で赴く。深夜0時過ぎに寝たのだが、3時半に眼が覚めてしまう。いつでも出かけられる用意だけして、ギリギリまで原稿を書く。仕事場のiMacG4に向かっていると、5時10分ほど前から夜が白々と明ける。5時半、家を出て駅への道を歩き始めた頃はもうすっかり朝である。いつの間にかまた陽が長くなった。7時10分発のぞみ。いつものように幕の内弁当を買い、静岡を過ぎるくらいのでかけてゆっくり食べる。食べ終わるとこてんと寝てしまう。眼が覚めると京都の少し前。10時前に新神戸着。地下鉄で三ノ宮まで出て、そこから新快速で約15分。
明石は海の街である。駅を出て10分も歩けばもう瀬戸内海になる。淡路島へ渡るフェリー乗り場があり、その手前には水揚げされたばかりの新鮮な魚や蛸──明石焼きに入っているあの蛸──を売る「魚の棚市場」、通称“うおんたな”がある。道幅が広い。戦時中空襲ですべて焼けたからだそうだ。うちの母親は姉と祖母、さらにはその母親、つまり母親からみてお祖母ちゃんと手を繋ぎ、命からがら海に飛び込み助かった──という話を、こういう法事の場になると必ず言う。
陽射しがとても強い。だから街全体が白っぽい。明石を思い出すとその白い風景が眼に浮かぶのは、ずっと長い間子供の頃の記憶だからだと思っていた。改めて墓石を見ると祖父が亡くなったのが昭和37年とある。僕が3歳の時だ。あまりに幼過ぎる時代なので、夢と現実、そして色褪せた白黒写真が混然となり、やけに白っぽい記憶になっているのだと、そう思い込んでいたのだ。しかし、今日も明石の街は白かった。アスファルトに瀬戸内の白砂を使っている、そのせいもあるのかもしれない。
祖父が亡くなっても、海岸の埋め立てとそれに伴う区画整理で引っ越しを余儀なくされるまでは、母親は毎年夏、僕と兄貴を連れて明石へ里帰りしていた。母方の従兄弟が集まるのだが全員男ばかり。僕は一番年下なので、ひと夏だけお兄ちゃんが5人に増えるのが楽しくて仕方なかった。夏、海、スイカ、水中メガネ、花火と言った子供には嬉しすぎるものと相まって、この街の記憶は夢のように美しい。今は東京に住み、商社マンになって世界中を飛び回廻っているいちばん年の近い従兄弟が「本、読んだよ」と言ってくれた。僕らは本当に仲が良かった。「本当に変わってないな。本の中に出てくるお前は子供の頃のままだよ」と言った。