昨日から短い原稿をずっと書きあぐねていて、朝からiMacG4に向かい続ける。ジョン・F・ケネディとキューバ危機に関することを背景にして、というような。どちらかと言えば原稿というより広告のコピーライトに近い。資料を貰い、自分でも色々とインターネットで調べたりして、ソコソコ論旨は出来上がってはいるのだけれど、それがアタマの中でまだ書き出せるまで熟成してくれていないという感じ。仕方なく「あー」とか言いつつ部屋をウロウロしたり、ベッドで横になったり珈琲を飲んだり。
気分転換にTVを点けると相変わらずアホな大臣のアホな発言のことをやっている。「産む機械」というのは文脈を多少無視して言葉だけを取り出してしまった感もあったけれど、此処に来て「健全」と言ってしまった途端、本当にアホだということがバレてしまった。例えば現在、自衛隊員の方々の中には「自分の命を捨ててでもこの国を守りたい、世界の平和を実現したい」と思っている人が何人もいるだろう。誤解を恐れずに言えば、僕はそういう人は立派だと思う。ただ、ですね。じゃあ、例えば防衛大臣が、「今我が国には戦地に赴いて死んでも良いという“健全”な考えの若者が多い。だから我々はその“健全”な考えにフィットした政策を──」なんて言ったら、どーする?
健全か健全でないかを決めるのはアンタじゃない、オレ達だ。我々国民が、市民が、論議して討議して、言論で闘って決めることだ。自分の命を犠牲にしてまで国を守りたいという人を立派だと言った意味はそれだ。立派な考え方だと思う、勇気ある人生だと思う。しかし、それを国として国民として正しいと考えるかはまた別だ。そのためには徹底的に言葉を使って闘わなければならない。これが健全だ、これが普通だ、これが日本人として正常な考え方だなんて言ったら、すべての論議も思想もそこでストップしてしまう。
世界中には戦争や紛争や悲劇がたくさんある。死んでいく子供達だってたくさんいる。それをどうするかには、言うまでもなくたくさんの選択肢があるのだ。実際問題、NGOやNPOその他でそう言った活動している人もいるし、身体を張って現地をリポートし続けるジャーナリストもいる。少子化の問題だって一緒だ。産む選択をあれば産まない選択もある。国民全体が高齢化していくに従い、年金をどうするか、福祉をどうするかには山ほどの選択肢がある。どれを取るかはすべて我々の自由だ。話し合いの余地はすべてに対して平等にあるべきだ。
東国原知事はブログ
『新そのまんま日記!』の中でこう言っている。
>僕は別に恐怖政治をしようとも、周りにイエスマンだけを置こうとしている訳でも決してない。
>皆で自由闊達な議論をしながら、またその様子がオープンになり、県政や宮崎が少しでも風通しがよくなり、ガラス張りになり、皆が自由に政治参加し、新しくかつ活性化してくれればなと思っているだけなのである。
ヤナギサワ大臣よ、民主党や社民党のオバサン代議士達よ、アンタ達がしなくてはならないのは、何が健全で健全でないかを決めるのではなく、何が女性蔑視で蔑視でないかを決めるのでもない。ただ、すべての人達がそれを話し合い論じ合える社会を作ることであり、より多くの人々の自由な意見の代弁者たることだ。それにしてもマチムラやコームラという代議士達は「言葉狩り」だとか言い始めたらしい。自民党、馬脚をあらわすとはこのことだ。この政党は発言する市民より、無駄な道路や空港やダムを作りたい人達の方を向いている。