今日も良い天気だった。朝起きて、しばらく台所の床を見つめていた。ネコ達のエサ場。大きめのお盆を置いてその上に4枚のお皿。カンヅメもしくはドライフード用がふたつ、そしてお水用がふたつ。その下にバスマット大のタオルケット。みャ太がカンヅメをこぼす、というかアイツは食べるものをいったんお皿の外に引っ張り出してたから食らいつくのが好きだったからだ。
昨日の朝掃除をした時に、そのタオルが汚れていたので洗濯した。お盆もお皿もキレイに洗剤で洗い食器籠に立てかけていた。今朝になって、さて、それらを定位置に戻そうかと思い、だけどしばらくそのエサ場の無い台所の床を見つめていたのだ。そして、もういいか、と思った。いつものようにデスクトップのネコ達にお水を持っていってやり、「もう、エサ場片付けていいか?」と訊いた。ネコ達は何も答えなかった。
ぎじゅ太が死んだ時、悲しいとか寂しいとか、死んでしまったことが信じられないという前に、アイツが生きていたのは果たして本当のことだったのだろうか? と思った。あんなに可愛い、オレが部屋を移動するたびに後ろをついてまわり、抱き上げると鼻をペロペロと舐めてくれる、そんなにまでこんなオレを愛してくれる、そんなヤツが本当にいたんだろうか。あれは、オレの心の中にだけあった妄想だったのではないかと。
みャ太が死んだ時も同じことが起こった。約一年もの間、バッグの中でニャーニャー鳴き続けるアイツを抱え、獣医さんに通っ日々は本当のことだったのだろうか? 優しい獣医さん達にお世話になり、連れて行かれるネコは大変だったかもしれないが、飼い主にとっては優しく暖かい時間だった。あれは、本当にあった出来事だったんだろうか? それを想い出そうとすると、まるでオレとよく似た男が一匹の白いちょっと生意気そうなネコと共に出演している──、そんな地味な映画を観ているような気になった。
人間の心は不思議だ。まあ、僕だけなのかも知れないが、あまりに大きな喪失感を受けると心のサーモスタッドみたいなものがはたらくのだろう。彼らが死んでしまったのではなく、元々いなかったのだという錯覚を引き起こす。そして時が経ち、やっとのことで悲しみに耐えられるほどに回復すると、その不在を本当のこととして実感出来るようになる。
でもそうやってエサ場を片付けてしまうと、その少々ガランとした台所の床に、みャ太とぎじゅ太が座ってお皿に顔をつっこみ、ガツガツとカンヅメを食べている様子がむしろありありと眼に浮かぶようになった。2匹ともドライフードが好きだった。でもぎじゅが生きていた頃にはあまりドライばかりやり続けると水分が不足してしまうせいか、アイツがウンチを詰まらせてしまうのでほどほどにしていた。
重いカンヅメは台所の下の棚に、ドライの袋は頭の上の棚に入れていた。いちばん好きだったのはモンプチのシーフードブレンド。ひとつぶひとつぶがサカナの形になってた。「今日はドライにするか?」と言って上の棚に手を掛けただけで、2匹とも「うにゃー、うにゃうにゃー」と僕の足の周りをまとわりつくように廻った。
そんなひとつひとつの光景が、片付けてもう何もないエサ場の床に、まるで浮き上がって見えるようだった。そうか、茶碗ももう少し仏様用というか小さなものにしてやり、お水だけでなくドライも時々供えてやろうかなと思った。実は棚の中には、みャ太が食べ残したものがまだ三袋も残っているのだ。