昨日の続き。こうして毎日日記に写真をアップしていると、時々「失礼ながら、写真、加工しておられますよね」と言われることがある。これって、プチ整形してる人に「目元、イジッてるよね?」と訊くのに似てる。「失礼ながら」という枕詞が付くということは、デジタルの写真に加工や修正、フィルターをかけることは「イケナイこと」、あるいは「ズルしてる」という意識があるんだと思う。だからそう伝えてくれる人には必ず、「大丈夫、誰にも言いませんから」的な優しさがあったりする(涙)。
けれど僕のようなアナログ時代からカメラに触れ、特に印刷媒体を通して写真に関わってきた者の場合、修正を施すというのはまったくもって当たり前のことでありました。グラビア雑誌を作っていると、その最終段階で色校正というものがある。そこでは「暗い部分を明るく」とか、逆に「ハイライト抑えて」と指定したりする。これはつまり後から「イジる」わけです。また、製版職人さんの方にも好みというものがあって、シアン(青)を強めに出す人もいれば、マゼンダ(赤)を強くしたがる人もいる。
それが吉と出る場合もあるが、あまりに「やりすぎ」なときはポジフィルムを添付して「オリジナルに忠実に」とお願いすることもある。というか印刷に限らず、たとえプリントであっても、必ずしもそのまま焼かれているわけでは、ない。今はどうかわからないけれど、昔はカラーフィルムの紙焼きには「機械焼き」と「手焼き」というものがあって、「手焼き」の場合はオペレーターさんがキレイに修正して仕上げてくれたものです。だから今のコンデジなんかとは比べものにならないくらいスベックの低いインスタントカメラや、「写るンです」的なレンズ付きフィルムでもソコソコいい写真が撮れたりした。
何となくだけど、「修正ナシ」イコール「正しい」、「修正・加工」は「ズル」という思想の背景には、写真というのはシャッターを押せば世界がそのまま、良くも悪くも忠実に再現されてしまうという、そんな思い込みがあるのではないか? だから「修正・加工」は悪い部分を誤魔化すのだ、と。けれど、そう考えれば良いところだって写真に写せばダメになる場合だってあるはずだ。では、写真が描き出す世界とは果たして何なのか、という話は長くなるので明日に続きます。
※写真は去年の1月30日、新宿紀伊國屋書店本店。ココのタイル貼りの壁は本当にキレイなのだけど、iPhoneで普通に撮っただけでは見た目の印象のように写らない。なので〈ライト〉で「ハイライト」を抑え、〈カラー〉の「彩度」を持ち上げ、「MOLDIV」というアプリで「VIVID」というフィルターをかけています。data:iPhone6 #Instagram #MOLDIV #VIVID