8時起床。114分走る。戻って風呂に入り、TVをつけるとイシハラという名の都知事が「フランス語は数が数えられないから国際的でない」などと発言したことに対して日本在住のフランス語教師達が訴えを起こしたというニュースをやっていた。イシハラをずっと取材しているジャーナリストが言うには東京都に新しい大学を作るという構想があって、それを巡りとあるフランス語教授と対立していることに端を発した、ある程度計算された発言であろうということだった。
僕はこのイシハラという男が嫌いだ。でもまあ、政治家なのだから色々と駆け引きをしなければならない局面があるだろうことは理解できる。しかし、それでも胸の中には気持ちの悪い不快感が残るのは、イシハラが意図的に言葉を玩び誰かを傷つけようとしているからだ。以前にも、イシハラ自身か都政だかに批判的な記事を書いた新聞記者に向かって、記者会見の場で「お前かそのブンヤは」と言っているのを見たことがある。明らかに相手が不愉快になることを計算して言っていた。イシハラは作家でもあるそうだから、そんなことは簡単に出来るのだろう。
僕がまだ若い頃、尊敬していた年上のライターと話をしていた時、彼が「俺は言葉を扱う商売、つまりプロフェッショナルだ。だから相手を言葉によって完膚無きまで叩きのめすことなんて簡単なんだよ」というような意味のことを言うのを聞いたことがある。彼は無名ではあったが圧倒的に文章の上手い人だった。僕は駆け出しの三流エロ本編集者で、いつか文章が書きたいと思っていた。だけど果たしてそんなことが出来るのだろうかと思ったことをとても強く憶えている。
だけどこうして四〇も半ばを過ぎ、ダラダラと文章書き続けてきただけで、誰かを傷つける文章なんていとも簡単に書けるということが判る。「人には人を傷つける力があったんだ」というのは吉田拓郎の歌詞だけれど、言葉には潜在的に他者の心を損なってしまう力がある。それは、コップいっばいに注いだ水がかすかに傾けただけでたやすくこぼれてしまうようなものだ。決して誰かを傷つけようと思わなくても、言葉はいともたやすく人を強く痛めつけてしまう。さらにそれがいったんメディアに載れば大きく増幅される。それを知らないバカな物書きは、今日も誰かを傷つけるためだけに言葉を使う。
今朝はiPod Shuffleにはっぴいえんどを何曲か入れたプレイリストでジョギングをした。『風街ろまん』の中に「抱きしめたい」という曲がある。松本隆の美学と大滝詠一のヴォーカル、細野晴臣のベースラインと鈴木茂のギターワークが最も高い位置で交差したはっぴいえんどの頂点とも言えるロックンロールである。松本隆は当時、歌詞は決して平面的ではなくきわめて三次元的でなくてはならないと考えていたという。まさに、言葉というものが風景のように立ち上がって来るような歌詞だ。言葉とは文章とは、何かを書く発言する発信するとは、すべからくこうでありたい。君の街はもうすくなんです──、と。