昨日のお昼過ぎ、ある人からFacebook経由でメッセージを頂いた。お会いしたのは一度だけだが、この日記を以前より読んでくださっていて、かつては同じ出版の業界、しかもある程度近いところにいらした方である。文面はこうだった。「元──出版の編集者、──さんが昨日の朝亡くなりました。彼は私によく東良さんの話をしていましたので、お知らせ致しました」と。そして、後日お別れの会が開かれる旨が書かれていた。ただし──。確かにその出版社とは、ちょうど20年ほど前から5、6年、断続的に付き合いがあった。3誌ほどの雑誌にライターとして関わったと思う。しかし、メッセージに記された名前にどうしても覚えがないのだ。いや、10人ほどの編集者と付き合いがあったはずなのだが、今やそのほとんどの顔と名前を思い出すことが出来なかった。
僕は時々この日記に昔のことを書くので、「トーラさんは本当に記憶力がいいですねえ」と呆れたように言われる。けれど違う。単に覚えていることを書いているだけで、事実は、このように大切なことはすべて忘れている。親しくなった女性には必ず、「あなたは都合のいいことだけを覚えているのよ」と言われる。その通りだと思う。昨日はずっと思い出そうとしていた。ふと思いついてiPhoneにその出版社名を入れて検索してみたが、1件もヒットしなかった。よく考えれば当たり前だ。僕がまだ携帯電話を持ってない頃のことなのだ。実家のある新百合ヶ丘を往復する電車の中でもずっと考えていたのだが思い出せず、最寄り駅について家までの帰り道でやっと思い出した。そうか、携帯を持たない頃だ。メール入稿というのも一般的ではなかった。だからいつも原稿を取りに来てくれる若い編集者がいて、やがて彼の下に大学を出たての新人が付いた。それが亡くなった「──さん」ではなかったか?
そこまで思い出すと不思議なもので幾つかの記憶が甦って来る。確か10代の半ばくらいまでフランスで暮らしたいわゆる帰国子女で、学生時代は芝居をやっていたと語っていたような。しかしどう考えてみても、会ったのは一度か二度のはずだ。いや、こちらが単に忘れているだけかもしれない。あるいは彼としては、学生時代が終わり社会人になって初めて出会ったフリーランスの人ということで、印象が強かったのかもしれない。ともあれそうであれば僕よりひと廻りは年下、あまりに早過ぎる死である。
ライターというものは、編集者という存在がいないと仕事が出来ない。こうして個人的なブログに文章を書くことは出来ても、それをネットにせよ印刷媒体にせよ載せて形にして、お金に換えてくれる人がいないと生活出来ないのだ。いや、単にお金の話だけじゃない。「書いてください」と言ってくれる人がいるから、誰しも「書こう」という気持ちになるのではないか。つまり編集者という第一の読者がいて初めて、文章を書くモチベーションが生まれる。言わば物書きにとっての編集者とは、自分の文章が社会へ出ていくための窓なのだ。その点、僕は親しい編集者が今も昔も極端に少ない。それは元々縁が無かったのではなく、「──さん」の存在をまったく覚えていなかったように、実は得ていたはずの多くの縁を忘れ、そのまま失っていただけなのではないか。
今日はある人の紹介で、某雑誌の編集長にお目にかかった。ご本人がこのような言い方をよしとされるかは判らないが、そのキャリアと一般的な知名度から言って、おそらく現在日本で最高の現役編集者であろう。「──さん」との切れた縁を思った次の日に、奇しくも出会った新たな縁を大切にしたいと思った。
※駿河台、明治大学の裏。錦華公園脇から坂道を登り、山の上ホテル別館を写す。data:ニコンD70、AF-S DX Zoom Nikkor ED 18-55mm F3.5-5.6G。ISO・400。