午後より外出。島田隆一さんという若い監督の撮ったドキュメンタリー映画
『ドコニモイケナイ』の試写へ。渋谷のアップリンクにて。全編、胸が締めつけられるような作品だった。物語はこうだ。2001年、日本映画学校でドキュメンタリーを学ぶ20才の学生だった島田青年は、仲間2人と実習作品を渋谷に集まる若者達をテーマに作ろうと考える。そしてカメラと録音機材を手に終電前の渋谷に通い、路上の若者達を取材するうち、吉村妃里という19才の少女と出会う。彼女はミュージャンを目指して博多からヒッチハイクで上京し、深夜のハチ公前でアカペラを唄い似顔絵を描いていた。その生き方と存在に強く惹かれた島田達は、彼女を主人公に据え映画作りをすることを決める。しかし幾つかの出来事があり、やがて妃里は精神を病んでいく。
これは、渋谷版
『真夜中のカーボーイ』である。ジョン・シュレシンジャーによる1969年の作品。あの映画の主人公ジョー(ジョン・ヴォイト)は甘い夢だけを見てニューヨークへやって来る。吉村妃里を始め、『ドコニモイケナイ』に登場する若者達も同じだ。夢は語るが希望を知らない。一部を除いてわずかな才能さえ無いが、明日に繋がる努力をしているようにはとても見えない。心に純粋さばかりを詰め込んで、それさえあれば理想が掴めると思い込んでいる。そして、寂しさだけは誰よりもたくさん抱え込んでいる。ダスティン・ホフマン演じるラッツォのようだ。都会は彼女達の夢を無残に打ち砕いていく。当然だ。最初から叶わぬ夢なのだ。しかし、それらはすべて若者達だけのせいなのか? 夢を追うことは素晴らしい、夢をあきらめないで、ナンバーワンになる必要はない、君はオンリーワンなんだよと言っているのは、この街でありこの国なのだ。60年代後半のニューヨークのように。
吉村妃里が蝕まれるのは、統合失調症だ。かつては精神分裂症と呼ばれた病である。症状は人によって違うが、幻覚や幻聴が起き、思考と感情のコントロールが奪われる。作品の中で妃里本人は「自分が自分じゃなくなってしまう」と語る。原因には遺伝や体質的な問題があるというが、発症するかどうかは社会との関係性だろう。その意味では監督・島田隆一も同様だ。ヒロインを失った映画は挫折し、仲間達は映画学校を卒業後バラバラになる。島田は企業VPの制作や映画の助監督等を務めながら(「映画業界の片隅で仕事をしながら」という言葉が資料にある)、残されたVTRにこだわり続けた。すべてを忘れ日々の仕事に没頭するか、もっと商業的な映像作家を目指す道もあったろう。しかし、それでは「彼は彼でなくなる」のだ。2010年、島田は再びカメラと共に、故郷佐賀で暮らす吉村妃里を訪ねる。これが本作の、決して劇的でも楽観的もないクライマックスである。ただし──島田と妃里の現在、その誠実な生き方だけは希望だ。
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『ドコニモイケナイ』公式サイト。2012年11月24日、渋谷ユーロスペースにてレイトショー(連日21:10〜)。