松本復興担当大臣が辞任した。昨日書いたように、村井宮城県知事に対する暴言はこの人の人格的な問題、つまりパーソナリティの歪みに端を発したものだ。故に彼の政治的手腕や能力、ましてや哲学、イデオロギーとは一切関係ないので、別に辞める必要はないと思う。間違ったことをしでかしたと思ったなら、「ごめんなさい」と素直に謝って、後は粛々と自分の仕事を進めれば良かったはずだ。ただし、被災地の人達が「あんなヤツに復興を担当して欲しくない」と言うのなら、それは致し方ないと思うけれど。
あの手のモラルハラスメント、パワーハラスメント、恫喝、苛めというのは、やられてみると判るけれどけっこうキツイ。僕はエロ本編集者、AVライターという出版業界の底辺を歩いて来た者として、今まで信じられないほど嫌な思いを何度も味わって来た。大きな出版社は下請けの編集プロダクションをゴミのように扱うし、そこで働く編集者は印刷所や写植屋からもひどい扱いを受ける。単純に払ってる金が違うからだ。人格とか人間性は一切関係無い。その態度はあからさまである。編集者の中にも、フリーのライターなんて金さえやれば何でもするんだろうと思ってるヤツはたくさんいるし、そもそも自分の子分か家来みたいに思ってるのもいる。
しかしそんなヤツに限って立場が変わると、人を「先生」呼ばわりしたりするからお笑いである。何が言いたいのかというと、そういう意味の無い上下関係というのは、仕事に於いてまったくの無駄だということだ。松本という元大臣は県知事にああいう偉そうな態度を取って、何かが円滑に進むとでも思ったのだろうか。「客を出迎えなかった」とか言ってたが、出迎えたら宮城県の復興はちょっとでも迅速に進んだのか? 答えはノーだ。今日の昼間『情報ライブ・ミヤネ屋』を観ていたら、宮根さんが「ああいう強引な人がこの非常時には敢えて必要だったかもしれない──という意見を言う人もいるようですが」と言っていた。
おそらくそういう考えを持つ人は、田中角栄あたりをイメージしているのだろう。しかしそこには高度経済成長期だけに存在した、今日より明日の方が豊かになるという時代背景が後ろ盾にあった。誤解して欲しくないのだが、昔は良かったという話じゃない。いつか成功出来る、成り上がれる、金持ちになれるという希望があれば、辛い人間関係も我慢出来たのだ。僕らの父親くらいかそのもう少し下の世代、モーレツ社員と呼ばれたサラリーマン達はそうして来たはずだ。嫌な取引先に虫けらのように扱われ、バカな上司にゴミ扱いされても、「チクショー、いつか俺だって」と歯を食いしばって頑張って来れたのだ。彼らは苦労して郊外に小さな家を買い、子供にはちゃんとした教育を受けさせようとした。
その世代には敬意を払いたい。少なくとも僕は、そんな親に何不自由なく育てて貰った一人である。けれどそのあげく、彼らが手にしたものはいったい何だったのか。我々が今生きている現代、つまり、当時彼らが夢見た未来とは何だろう? 成功したい、金持ちになりたいという希望の元に、経済効率を優先した結果何が起きたのか。例えばかつて水俣や新潟や四日市でたくさんの人が苦しんだ。今も辛い日々を過ごしている人がいるかもしれない。その後中学では校内暴力が起き、小学校では学級崩壊が始まった。そして今度の原発事故だ。現在いったいどのくらいの数の人々が、放射性物質の危険に晒されているか判らない。この先どれだけの子供達にガンが発症するか判らないのだ。
もう、人間と人間、どっちが偉いか競い合うとか、成功しようとか金持ちになろうとか成り上がろうとか、無駄に頑張るのはやめにしないか。気楽に生きよう。お互いに敬意を払い尊敬し合えば、けっこう楽しく生きていける。ピース。