昨日書いた、「何が必要で、何か必要ないのか?」の続き。地震発生以来、何がむなしいかというと新聞である。例えば朝日新聞ここ数日間の一面見出し。「原発冷却へ機動隊」(3月17日)、「高濃度放射能 復旧阻む」(3月17日)、「原発肉薄 30㌧放水」(3月18日)──これを虚しいと呼ばず何と言おう。「そんなこと一夜明けてから言われても・・・」と思う。もちろん多くの人が言うように、TVも観ていてしんどい。けれど、やはりあの「緊急地震速報です」というのは効く。ほんの数秒前でも「来る!」と判るのと、突然グラッとやられるのとでは雲泥の差だと思う。それと、電車の運行状況と計画停電のお知らせ。ところで、「詳しくは東京電力のホームページ等をご覧下さい」というけれど、ネットに接続する環境を持ってない人は、いったいどうしているのだろう。コールセンターへの電話なんて繋がるのかな?
一昨日、太賀麻郎くんとの打合せの帰り、小田急線に揺られながら、編集K氏がこんなことを言った。「韓国の
オーマイニュースってあったじゃないですか。市民が誰もが記者になって自由に記事を投稿するという、日本でも出来ていつの間にか無くなっちゃったみたいだけど。でも今回のことで、twitterが自然発生的にその代わりになってますよね」と。そう、先に書いた電車の運行状況や計画停電に関しても、Googleのリアルタイム検索にかければ、実際電車に乗っている人や、現在停電してる地域の人達の「つぶやき」がダーッと並ぶ。要はそれをどのように利用するか、だ。
今日、NHKの夜のニュースを観ていたら、最後にアナウンサーが「悪質なチェーンメール等にご注意ください」と言っていた。けれど、例えば風評被害なんかに関しては、NHKの報道だろうが、官房長官の生中継だろうが、起きる時には起きる。ところで、インターネット時代のソフトウェア開発には、オープンソースという考え方がある。これはあるソフトのプログラムをネット上に無償でアップし、世界中の開発者達が自由にアクセスしてバグを修正し、みんなで作り上げていくというものだ(←この辺りのことに関しては梅田望夫氏の名著
『ウェブ進化論』に詳しい)。
Wikipediaなんかはそれの情報版と言っていいだろう。世界中の人が好き勝手に書き込んでいき、ネット上に百科事典を作っていく。だから「あんなものは間違いだらけで信用出来ない」という人もいるけれど、自分で信じるものと信じないものを判断して使えば、こんなに便利なものはない。結局のところかつて世界を広く支配していた「情報とは一部の知識人が精査した後、大衆に広く知らしめるもの」という意識が、圧倒的に古くなってしまった。いや、ずいぶん昔から時代遅れだったのだが、既得権益を持った人々が、それを手放したくないから事実を隠蔽して来たにすぎない。記者クラブという存在がウサン臭いのも、ナベツネ老人が狂気に走るのもそのせいだ。
かつて統制経済と自由経済という言葉があったけれど、言論も情報も、否応無く「自由」へと向かっている。ちなみに、以下はライターの先輩でマンガ評論家の永山薫さんがtwitterにリンクしていた。
さくらい海老さんというイラストレーターの方のブログ。
「twitterのデマ発信源はつきとめられる」んだそうです。つまり、情報を精査することは誰にでも出来る。