終日仕事。韓国大延坪島への砲撃では、民間人2人の死亡が新たに報道され、子供達の通う学校にまで攻撃が加えられたことまで判って来た。昨日の日記で、我々は何を考え何をすべきか──と書いた。今考えなければならないことのひとつとして、「人間は人間を殺して良いのか?」という問題があると思う。「人間は、どんなことがあっても人間を殺してはいけない」ということになれば、答えは簡単だ。たとえ戦争が始まって自分が殺されそうになったら、ただ黙って死んでいけば良い。愛する家族、友人、幼い子供が眼の前で惨殺されたとしても、「それは仕方のないことなのだ」と思って諦めれば済む。
誤解して欲しくないのだが、そういう考え方を批判しているわけではない。例えば僕自身もアメリカ国内のように、銃を持って自分を守るという考え方にはやはり抵抗がある。善悪の問題ではなく、日常的に拳銃を持っているという状態が、平和であるとは思えないのだ。それなら、もしも銃を持った強盗が我が家に押し入って来たとしても、撃たれて死んだ方がマシかなと思う。けれど判らない。それは暴力団とか、一部の人間しか拳銃を持つことがありえない、平和な日本に暮らしているからそう感じるだけかもしれない。「平和ボケだ」と言われたら、「そうかなあ」と答えるしかない。ボケるほど平和に暮らせるのは、幸せなことだ。文句あっか?
ただ、「時と場合によって、人間は人間を殺して良いのかもしれない?」、そう考えてみることは決して悪いことじゃないと思う。もちろん人が人を殺すなんてあって欲しくないし、出来れば無いに越したことはないわけだけれど、考えるだけなら誰にも非難されないはずだ。このテーゼは、僕のオリジナルではない。僕が大尊敬する社会学者・橋爪大三郎さんが著書に書かれていた。その本が例によって我が家のトイレ書斎(笑)の何処かにあるはずなのだが見当たらなくて、忙しいこともあって探すヒマがない。なので今は具体的な書名が判らず、うろ覚えでなので、以下は僕なりの解釈に基づいた考え方になる。
時と場合によって人間は人間を殺して良いのかもしれない──そう考えると、色んなことが浮き彫りになって来る。最近問題になっている裁判員制度とか、死刑廃止論とか、安楽死とか、テロとか戦争とか、領土問題とか。まずはテロと戦争、いったいどっちが悪なのかということを問題にしてみる。テロの方が悪ということなになれば、国として戦争をしかけ、テロリストを殺しても良いということになる。9.11以降のアメリカはこういう結論を出したのだと思う。まあ、フセインがテロリストだったかどうかには異論があると思うが。
となると、テロは悪いが戦争は悪くないということになる。何故テロが悪くて戦争は良いかと言うと、テロは不意打ちであり騙し討ちであり、時に闇討ちだからだ。それに比べ戦争には「宣戦布告」というものがある。正々堂々としてる(ホントか?!)。「これから攻撃するよ」「空爆するよ」「殺すよ」、「だからソッチはどうするの?」というわけだ。それは別にテロへの報復に限らない。例えばひとつの領土を巡って二つの国が対立していた場合、それは竹島でも尖閣でも北方領土でも良いのだが、「じゃあこの際だからお互い正々堂々と武力で戦って、勝った方が領土にしようぜ」という考え方もあり得るわけだ。
国家にとってそういう選択肢もあるんだと、閣僚とか国会議員とか官僚だけでなく、一般の国民が考えてみること──それには意味があると思う。領土を巡って日本が他国と戦争になる。そうなると誰かが死ぬ。それは自分の夫かもしれないし父親かもしれないし、息子かもしれない。友人かもしれないし兄弟なのかもしれない。それが良いのか悪いのか、嫌なのか受け入れるのか? 嫌だと思った時人間は初めて、必死になって別の選択肢を探すんだと思う。