9月19日の日記に、佐藤忠男著
『大島渚の世界』(筑摩書房)を引用したが、久しぶりにこの本を引っ張り出しページを開いて驚いた。字がとてつもなく小さいのだ。ごく普通の四六判・単行本サイズなのだけど、1行が48文字もある。1ページ20行。手元に活字ポイント表が無いのでハッキリとしたことは言えないが、おそらく文字の大きさは8ポイント(写植に換算すると12級程度)。つまり文庫とほぼ同じ大きさだ。
最近では文庫本も読みやすく文字を大きくする傾向が強く、13級で組む場合が多い。5月末に出版した
『AV黄金時代〜5000人抱いた伝説男優の告白 』(文庫ぎんが堂)は、さらに大きく14級。1行35文字、1ページ15行しかない。つまり何が言いたいのかというと、かつて70年代まで、本を読むという行為は言わば「お勉強」であり、楽しみではなかった。だから読者に対する読みやすさとしての配慮なんて無かったのだ。いや、むしろわざと「読みにくく」していたのではないか?
例えば昔の岩波文庫。化粧カバーが無くてパラフィン紙にくるまれていて、価格が金額でなく星印(★)で示しされていた。確か★1コで50円、それが3つ付いていると150円とか。そして帯によってジャンルが分かれ、青帯が「思想」、白帯が「政治・法律」、赤帯が「外国文学」だったような。新宿の紀伊国屋書店の2階、文庫売り場の奥には岩波のコーナーがあって、まるて怖い物見たさみたいな感じでマルクスの『資本論』とかアダム・スミスの『国富論』なんかを開き、その細かい字がびっしりつまった難解そうな文章を見て、「うひゃ〜、読めねえ、読めねえ、一生ムリ!」と思った(涙)。
僕が大学生頃までは、また読書権威主義みたいなものがあって、現実的な社会問題なんかについて話していると、年上の人から「キミ、そんな偉そうなこと言ってるけど、マルクスの『資本論』くらいは読んでるんだろうね」なんて鼻で笑われたりした。また、僕は文学部哲学科というところに通っていたのだけれど、「カントやハイデガーなんてもんはね、日本語で読むから理解出来ないのであって、原書にあたればすぐに判る」なんて言う教授もいた。嘘つけ、何ンで母国語で読んで判らないものが外国語で判るんだ。そもそも誰もがそんなに一生懸命マルクスを読んで共産主義をお勉強したなら、何だってソ連や東欧はあんなふうになったんだよ。
難しい本を読むのが悪いとは言わないが、要するに「読んだ」という経験だけが権威になってしまう時代だった。海外旅行が一般的でなかった時、観光でアメリカやヨーロッパに行っただけで、すごい体験をしてしまったかのように。いや、もっと下世話な言い方をすれば、先に女性の身体を知ったヤツが童貞をバカにするようなもんだ。くだらない男がつまらない女とセックスしたって何も生まれない。問題はどれだけその時間と関係を愛せるか、だ。本を読むという体験も同じだと思う。