5月10日の日記に「Amazon.co.jpで注文した」と書いた、関谷ひさしのマンガ
『ストップ!にいちゃん』を、夜、仕事を終えた後に少しずつ読んでいる。今この時代に、この作品の面白さを伝えるのは、とても難しい。ひと言で言えば、〈五中のスーパーマン〉と呼ばれる主人公・南郷勇一が繰り広げる、学園ヒーローものコメディということになるのだが、こう書いても何処に面白さがあるのか、読んだことのない人にはサッパリ判らないだろう。
マンガ批評の第一人者・夏目房之介氏は、「いきなり言ってしまえば、『ハリスの旋風』の原型が、この『ストップ!にいちゃん』である」と書かれている(『消えた魔球』双葉社刊より)。けれど『少年マガジン』誌上で、『あしたのジョー』の前に描かれた『ハリスの旋風』の方すら、今はほとんどの人が知らないのだから手も足も出ない。この石田国松という破天荒な主人公が活躍する学園マンガは、アニメにもなったので、40代以上の人はかすかに憶えているかもしれない。しかし、そもそも「学園もの」というジャンル自体が、昭和30〜40年代と現代とではまったく別物になってしまったのだから、もう説明すること自体が絶望的である。
とマア、そんなことを言っていても仕方ないので、1冊約450ページにわたる全9巻を読み終わった時点で説明を試みるつもりだけれど──それともうひとつ。マンガ、劇画というものが、長年あまりにも記号的に語られてきてしまったというのも一因だと思う。例えば『巨人の星』で言えば飛雄馬の〈燃える眼〉であったり〈がぁぁ〜ん!〉という擬音であったり、『あしたのジョー』であれば減量死した力石、真っ白に燃えつきたジョーといった、ある一面だけが物語の全体像を無視して一人歩きした。だからこそ、夏目房之介は「マンガとは〈コマ〉と〈線〉だけで語られるべきだ」と主張したわけだが。
記号的な批評──と言えば最近、柔道の谷亮子選手が参院選に出馬することになり、ナンシー関が生前「柔ちゃんはいつか選挙に出るよ」と予言するような文章を残していたと話題になっているらしい。僕は、ナンシー関という人は文章も上手かったし消しゴム版画も良かったけれど、彼女の書くものを一度として面白いと思ったことはない。やはり故人を例に出して恐縮だが、渡辺和博の『金魂巻』なんかも同様。「○金」(まるきん)、「○ビ」(まるび)」と言われても、「それがどうした?」と思う。最近ではテリー伊藤がワイドショーで語るコメントも同じ。
上手いこと言う、聞いた人が思わすニヤリとしてしまうというのは、別に批評でも何でもない。「だからどうした?」と問われればそれで終わる。大切なのは柔ちゃんが選挙に出馬することではなく、我々が彼女に投票するか否かだ。