二日ほどだらだらと過ごしていたが、今朝は6時前に起き出し家中ざっと掃除機をかけ、天気も良いので洗濯機を廻し、いつものようにシットアップとスクワットをしてからジョギングに出る。風もあるのですぐ乾くだろうとベランダに洗濯物を干したのだが、このところ雨が降ってないせいか砂埃が派手に舞う。それが我が家の方向へ吹いていったら困るなあと、走りながら気になって仕方ない。戻るとテレ朝の『サンデープロジェクト』が始まっている。ストレッチをしながらHDD録画を追っかけ再生で観る。
新しい外務大臣の岡田克也氏と、仙谷由人・行政刷新/公務員改革担当大臣に、例によって田原総一朗サンが迫るわけだが、全編にわたり二人とも言うことが判りやすく的確だ。この理路整然とした明快さはいったい何だろう? 後から出て来た3人の自民党総裁選候補が気の毒になるほどだ。特に西村という代議士は、最後まで何を言いたいのかサッパリ判らなかった。要は本来政治家の発言は、民主党の二人のように明瞭簡潔であるのが普通で、なれ合いの陳情政治やら派閥の親分子分関係とかから来る身内論理が判りにくかっただけなのだろう。だいたい今回の選挙で酔っ払いの中川とか絆創膏の赤城とかが落選した時、そもそもコイツらみたいなのが議員はおろか大臣までやってたというのが、タチの悪い冗談のように思えたものだ。
しかし、そこに漠然とした不安を感じないわけではない。例えば、すっかり忘れているのは僕だけではないだろう、かつて偽のメールに騙されイイ気になって強気な暴露をした挙げ句赤っ恥をかき、鬱病になってビルから飛び降り死んだ永田という若い代議士がいたことを。あの男をあそこまで追い込んだのは、妙なかばい方をした当時の前原代表を中心とした民主党だ。まあ、奇妙な死に方をしたというなら自民党にも松岡利勝という人がいたわけだが──。
そして、死んでしまった政治家をもう一人、最近TVで眼にした。鳩山由紀夫が総理になり、しはしば彼の足跡を辿るというVTRが流される。そこに何故か場違いな違和感を感じる人物が映った。新井将敬だった。新井と鳩山は年齢がひとつ違いであり、同じ86年初当選組。さらに鳩山の父・威一郎は新井の後援会会長だったそうだ。ヒモ付きの陳情をすべて断り、企業団体献金ゼロでクリーンな政治を目指したわけだが、そのぶん活動費に窮し、借名口座による株取引で資金作りをした。それが後に日興証券に対し利益要求していたのではないかという疑惑を呼び、新井は無実を訴えながら自ら命を絶った。それが1998年の2月。
あれから10年余。無実を訴え続け闘ったにせよ、罪を認め一時的に政界から身を引いたとしても、これだけの時間があれば新井将敬なら政治の表舞台に返り咲けたのではないか? ただ、久しぶりにTV画面に写った彼の姿に何故か場違いな違和感があったのは、やはりその死の判りにくさだった。民主党の永田はともかくとして、新井や松岡の死には、どうしよもないほど絶望的な不可解さがつきまとう。彼らはそんな入り組んだ外れない知恵の輪のような判りにくさに、首を挟まれて命を落とした。こと政治に限らないだろうが、明快であることやシンプルであることは、すべての人を迷わせない。