7時、眼が覚めてすぐにTVをつけると、画面が明るくなる前に──我が家は旧式のブラウン管なので(笑)──ワーッという歓声とアナウンサーの興奮した声が聞こえる。それだけで「ああ、200Mもボルトが世界新記録で勝ったんだな」と判る。昨夜は日付が変わった頃に仕事を終え、棒高跳びの沢野がラッキーな勝ち上がりで決勝に進むことが決まった辺りまでは見ていたのだが、ボルトの走りまで見ていたら興奮して眠れなくなるだろうと思いその前に横になった。それに、今回の世界陸上は時差の関係もあってなかなか予選からマメに追いかけられない。陸上競技、特に短距離はやはり予選、2次予選、準決勝と見続けていかないとその醍醐味を味わえないと思う。
今年のように夏らしくない夏があって、部屋に閉じ籠もり、誰にも会わずにTVを見続けたことがあった。1988年、ソウルオリンピックの年だ。正確な開催時期は9月17日から10月2日だからもう秋になっていたのだが、その前の8月からほとんど仕事をしなかった。僕はAV監督としてとあるメーカーと専属ディレクター契約というものを結んでいたのだが、会社、特にキャスティング部があまりにいい加減で非道なことをやるので腹を立て、助監督と制作に「俺、しばらく仕事はしないからな」と宣言して個人的なストライキに入った。
今思うと、何にそんなに腹を立てていたのだろう? バブルに向かう時期だった。AVは黙っていても売れに売れた。まるで札束を刷るように売れたのだ。会社は台湾から、強烈に廉価なVHSテープを何万本も仕入れ、自社のダビング工場で昼夜問わず数十台のデッキを廻し続けた。テープ一本の単価が80円程度。それが一本14,800円の製品に化けるのだ。札束を刷る──とはそういう意味だ。だから会社は内容の善し悪し関係なく、とにかく大量のリリースを監督と制作部に強いた。アダルトビデオとは、誰が何と言おうが自分にとっては表現以外の何物でもなく、女優や男優、スタッフはチームだった。それが大人達の単なる金儲けの道具になっていくのが嫌だった。
88年9月、陸上100M。カール・ルイスは準決勝を9秒台で走り抜け、ベン・ジョンソンは10秒以上かかった。ジョンソンは体力を温存していると言った解説者もいたが、僕は違うだろうと感じていた。ルイスの方がコンディション作りを上手くやっている。決勝は彼が勝つだろう。しかし、結果はジョンソンがスタートから頭ひとつ出て20メートルではトップに立ち、そのまま9秒79の世界新記録でぶっちぎった。TVカメラは明らかに「完全に負けた!」という表情のルイスを捉えていた。けれどスーパースターで良識的なアメリカの顔だったルイスはすぐに気を取り直し、ジョンソンに握手を求める。カナダ人の方は眼を合わせることなくそれに応えた。
今調べてみると、ルイスもジョンソンも共に1961年生まれ。僕と二つしか変わらない。当時はずいぶん若々しく躍動的な若者達に見えた。それは自分が30才を目前にし、青春の終わりを感じていたからだろうか。二人の争いは、今では誰もが知っているドーピング問題で後味の悪い結末となるのだが、僕は未だにジョンソンの強さが忘れられない。少なくともレースにかけるテンションは、彼の方が圧倒的に高かった。今日は午後よりジムに行く。今年になって初めて、信号待ちの時日なたにいるのが耐えられない──という夏らしい暑さを感じた。けれどそれも、天気予報によれば来週の月曜くらいまでとのこと。
※ということで本日も夏を感じさせる写真を一枚。昨日のショットから2年後の1995年、やはりホノルル・マラソンを走りに行った時──ということは12月なので実際は冬なのだが。カピオラニ・パークからカパフル・アヴェニューをアラワイ・ゴルフコース沿いに北上したところにある、その名も「レインボー・ドライヴイン」。晴天のハワイは何処を切り取っても鈴木英人のイラストレーションのようになってしまう(笑)。data:ニコンFA、ニッコール24mmf2.0、フィルム・フジクロームVelvia(ISO50)