喉の腫れは引いたようだ。しかし、お腹を壊してしまったこともあり、体力を強烈に持って行かれた感がある。立ち上がるのもしんどい。なので例によってしばらくiMacに向かっては、ソファーに倒れ、「はぁ」と力無いため息をついて休み、また仕事を続ける。曇り空の公園を窓から眺め、「ああ、走りたい」と呟く。いつになったら再び走り出せるだろう。ただ、こんな暗い日々にも、嬉しいことはあった。突然、Yくんよりメールが来た。
彼は、昨年亡くなった親友Kの助監督だった。06年の7月──そうか、丸3年前になるのか──Kの肺に癌が見つかり、駒沢の総合病院に入院した。見舞いに行くと抗がん剤治療で髪の毛は抜けていたものの思いのほか元気で、「Yのヤツがさ、毎日のように見舞いに来るんだよ」と嬉しそうに言った。当時Yくんは決して楽観視出来ない病気を抱えていた。「お前も病気なんだからさ、そんなにしょっちゅう来なくていいよって言ってんだけどさ」、Kはそう笑った。
YくんはKの死を最近、僕のこの日記で知ったという。実はあの夏の後、彼とは連絡が付かなくなっていて、通夜と告別式の際にも伝えようがなかった。いや、それより僕とKの妻Cは「まさか、Yくんもひょっとして・・・」と、縁起でもない予感を語り合っていたのだ。今日、返信を出すと早速リターンが来た。「あの頃は人工透析をしていましたが、その後、腎臓移植手術を受け、今は社会復帰しております」とあった。良かった。
想い出す。あれは確か1988年頃だ。KとYくんのいた制作会社が初めてアダルトビデオを撮ることになり、少しだけ手伝ったことがあった。僕は当時大手のAVメーカーで専属監督をしていた。四ッ谷にあったスタジオへ行き、僕はカメラマン役で出演したり、した。女優の事務所の社長が付き合いのある人で、「何よ、何ンでトーラさんがココにいるのよ」と笑った。世はバブルへ向かい始めていた。KとYくんの会社は一般映画やVPを撮るようなごく普通の制作集団ではあったのだが、そういったところまで「アダルトをやれば金になるから」という話が舞い込んでいたのだろう。
我々は若かった。本当に、無邪気なほどに若かった。その後、バブルの崩壊や、阪神大震災、オウムという悪夢がやって来るなんて、想像もしていなかった。だけどさ、遠く離れた友よ、女の子達よ。生きていようぜ。くたびれてもジジイになってもオバサンになっても。生きていよう、生きてさえいれば、また会えるんだから。Yくんはメールの最後にこう書いていた。「ピース」と。そう、七夕は過ぎたが、星に願いを、この世界に愛を──。