6時起床。久しぶりにこの時間に起きてみると、ずいぶん夜明けが早くなっているのに気づく。7時よりjog。しかし気温は晴天に関わらず思ったより寒い。北風が冷たい。結局110分走ったものの、最後まで手袋を外さなかった。午後、遅い昼食を食べようとしてTVを付けると、拉致被害者・田口八重子さんの家族、兄の飯塚繁雄さんと息子の耕一郎さんが、金賢姫さんと面会した報道が流れる。緊張した面持ちで会場に入ってくる彼女を見て、「ああ、変わらない」「相変わらず美人なんだなあ」と思うものの、画面が切り替わり87年当時の映像──つまり「李恩恵発言」をしたあの時と比べると、やはり時間は否応なく過ぎているのだと感じざるをえない。今の流行からすると、あまりに重すぎる感のある長い黒髪。あれはやはりバブル直前の日本女性をリサーチした結果の髪型だったのだろうか。
1987年11月、大韓航空機爆破事件が起きた時、僕はAV監督をしていた。今と生活はまったく違う。電車に乗ってアパートへ帰れたことはめったになく、1日最低1回はタクシーに乗った。確定申告で交通費を調べ、年間で領収書が10枚も出て来ない現在と比べると、自分もまた当時とはまったく別の人間になっているような気がする。ジョギングはもちろんのこと、10分も外を歩くことはなかった。第一報が流れ、やがて蜂谷真一、蜂谷真由美と名乗る日本人が拘束され、男の方は自殺と伝えられた。日本赤軍だ──そう思ったのは僕だけじゃなかったと思う。73年のドバイ、77年ダッカの両ハイジャックに関わっていた丸岡修が、その少し前東京で逮捕されていた。今Wikipediaで調べてみると11月21日とある。爆破事件のわずか8日前だ。
その日もタクシーに乗っていた。飯田橋と江戸川橋の中間付近にある会社で、夜中までビデオの編集作業をやっていた。その後だ。疲れ切ってシートに沈み込んでいた。ラジオをつけていた運転手さんが「例の蜂谷という親娘、日本人じゃなかったみたいですよ」とホッとした口調で言った。何故かそれが、外苑東通りから弁天町の交差点を早稲田の方に曲がろうとしていた、その場所だったということを憶えている。何故そんな所を通っていたのだろう。僕は当時神宮前に住んでいた。当時から付き合いのあった白夜書房のある高田馬場に寄る用事があったのだろうか。それはもう、あまりに昔のことなので判らない。